このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』


〜笠 塚〜

東北自動車道鹿沼JCから国道121号で鹿沼に向かう。


元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月11日)、芭蕉は鹿沼に泊まった。

 『曽良随行日記』に「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。」とあるが、どこに泊まったのかは書いてない。鹿沼の西の寺といわれた 曹洞禅寺 の光太寺で一夜を過ごしたと伝えられているそうだ。

 光太寺は「足利銀行手前の信号で左に折れる」とあるはずなのだが、「足利銀行」が見つからない。とりあえず東武日光線のガードを越え、八百屋さんで聞いて、やっとたどり着いた。この間、案内など1つもない。

曹洞禅寺光太寺


 前夜から小雨が降り続いていた。江戸から古編み笠の雨漏りを心配した芭蕉は、寺で新しい笠に替え、日光に向かった。

 それから5年後の元禄7年(1696年)10月12日、芭蕉は旅先の大坂で病み、51歳の生涯を閉じたのである。

 時を経て「芭蕉死す」の噂を耳にした寺では、供養のために思い出の笠を取り出して塚を建てた。これが笠塚である。

本堂の左手に笠塚がある。


「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られている。

この碑は後代のもので、後方に自然石の碑がある。


塚を築いたころ建てられたものといわれているそうだ。

 享保5年(1720年)、貞佐・潭北は下野を遊歴。「芭蕉雪中両居士の牌」を見ている。

  十九日古風山光泰寺 芭蕉雪中
  両居士の牌を拝して
鹿沼会
昼顔や我も乳筋の土に伏
  貞佐

蝉に筧の是に候
   五株


 元文3年(1738年)、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、笠塚を見ている。

此所の西の方の山寺に。翁の笠塚あり。其角。嵐雪が印。百里が塚もあり。笠塚に到りて。

   我も此の影に居るなり花の笠


 「鐘つかぬ里は何をか春の暮」、「入相の鐘も聞えず春の暮」の句は光太寺の作品であるという。 『俳諧書留』 には「 室の八嶋 」と前書きがある。

絲遊に結つきたる煙哉
   翁

あなたふと木の下暗も日の光
   翁

入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)

鐘つかぬ里は何をか春の暮

入逢の鐘もきこえず春の暮


 「 鐘つかぬ里は何をか春の暮 」は 『芭蕉句選拾遺』 に「膳所へ行く人にとあり。」と前書きがある。

 「入相の鐘も聞えず春の暮 」は『奥の細道』旅の途中、高久の門人 覚左衛門 に与えた真蹟の色紙。 『茂々代草』 に高久青楓所蔵の芭蕉の遺墨が紹介されている。

  能因法師 の歌に「山里の春の夕ぐれ来てみれば入相の鐘に花ぞ散りけり」(『新古今和歌集』)がある。

光太寺は当時無住だったそうだ。

芭蕉が住職もいない寺に泊まったのだろうか。

 明和6年(1769年)4月7日、蝶羅は奥羽行脚の途上鹿沼に泊まっている。

   卯月七日、鹿沼籟干亭にやどりて

立よれば麻のそだちぞたのもしき
   仝


県道14号鹿沼日光線で国道121号に出る。


交差点に足利銀行があった。

「足利銀行」の文字が街路樹に隠れて、国道121号からは見えない。

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