煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける
| 大江匡房
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いかでかは想いありとも知らすべき室の八嶋のけぶりならでは
| 藤原実方
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暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八嶋も都ならねば
| 藤原定家
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ながむれば淋しくもあるか煙たつ室の八嶋の雪の下もえ
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源 実朝
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芭蕉の句碑がある。
糸遊(いとゆう)に結つきたる煙哉
「糸遊」はかげろうのこと。「結ぶ」は「糸」の縁語。
この句は『奥の細道』にはない。曽良の
『俳諧書留』
による。
絲遊に結つきたる煙哉
| 翁
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あなたふと木の下暗も日の光
| 翁
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入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)
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鐘つかぬ里は何をか春の暮
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入逢の鐘もきこえず春の暮
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宝永6年(1709年)、明式法師は室の八島を訪れている。
近ければむろのやしま
に行。此御神は木の花さくや姫にて、富士權現一體なりと。又三輪の明神同體の説も有。本社のまへ泉澤清くたゝへ、水色烟をこむ。中に八の島おのおのたてり。古人の烟を詠ぜるになを叶はざるもあるにや、このしろ(※「魚」+「祭」)と云ふ魚をいめること縁起に見ゆ。
士岳輪山共一壇 烟雲相望路漫々
無窮景色争吟得 室八島頭叉手看
享保元年(1716年)4月11日、稲津祇空は奥羽行脚の途上早見晋我
・常盤潭北と室の八島に立ち寄っている。
十一日、早見晋我名こりをしたひて送らる。先室の八島
に立よる。村を惣社といふ。社の右に八の小島あり。煙をもつてその名たかし。今は水かれ烟たゝす。島塁々として神さひ森樹かうかうしく見ゆ。源重行か京の使にをしへたるも昔に覚ゆ。
呼返す飛脚や杉のかんこ鳥
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肝心の鮓にさめたりムギコ(※「麥」+「曲」)めし 潭北
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元文3年(1738年)3月22日、山崎北華は江戸を立ち『奥の細道』の足跡をたどり、室の八島に詣でている。
明れば。室の八島を尋ね詣づ。木立ふりて神さびたるさま。いと殊勝(すさう)なり。しげれる森の内に。いかなる人の作れるにや。回り回りて池を掘り。池の中に島と覺しきを。八つ殘したり。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず。おかしき事を構へたるものかな。此御神は。木の花咲や姫にてましましける。往昔より。煙を歌によみ習はし侍る。我も。
一くもり室の八島のたば粉かな
と云捨て。烟管腰にさし。小倉川といふを渡り。壬生に懸り。稲ばの里。親抱の松を見る。
寛保2年(1742年)、佐久間柳居は室の八島で句を詠んでいる。
宝暦5年(1755年)6月5日、南嶺庵梅至は「室の八嶋」のことを書いている。
六月五日快晴にして御山を跡に見奉り惣社村室の八嶋
の方を遠見す往昔火火出見の尊の住給ふ處とかや木華咲や姫の謂有しより古哥にも煙の言葉を用詠とかや今日は八嶋も丘と成りて八社立せ給ふとかや
宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、室の八島を訪れている。
佐野・天明を出て、惣社村、室の八島の明神に参る。木だち物ふり、宮立おくまりたり。池の形せし叢に、かたばかりの八ツの小島有りて、各小祠います。神さびわたりて、いと殊勝也。何とやらん法楽の句奉りしも、かいわすれぬ。
明和6年(1769年)4月6日、蝶羅は奥羽行脚の途上室の八島で句を奉納している。
室八嶋
奉納
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神さびて麦の穂波の八しまかな
| 嵐亭
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森々とわか葉もけぶる宮居哉
| 蝶羅
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高桑闌更
も句を詠んでいる。
与野の俳人
鈴木荘丹
も室八島の句を詠んでいる。
大正14年(1925年)7月1日、
荻原井泉水
は室の八島で芭蕉の句を見ている。
私は境内をあるいて見た。たいして広くはない上に、竹藪の大きな竹が境内の方へニョキニョキと出しゃばったままに捨ててある。そこに句碑が一つ立っていた。
糸遊に結びついたるけむりかな 芭蕉
これは『奥の細道』には載せてないが、その折の芭蕉の作なのである。句に「けむり」というのは、文に「煙を讀習はし侍るも…」とある如く、ここが歌枕として烟の名所だからである。
日光例幣使街道
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『奥の細道』
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