このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑

『奥の細道』


あらたふと木の下闇も日の光

 日光にはよく行くが、芭蕉の句碑を見ていない。インターネットで調べてみると、日光市役所近くの旧家高野忠治氏邸に芭蕉の句碑があるそうなので、訪ねてみることにした。

 東北自動車道宇都宮ICで日光宇都宮道路に入り、日光ICから国道119号(日光街道)に入る。


 日光市役所の近くに大津屋酒店があり、その向かいの小道を入ると、右側に「高野」という表札がある。

 高野忠治氏は縁側でくつろいでおられた。突然の訪問であったが、高野忠治氏は広い敷地の中にある芭蕉の句碑に案内してくれた。

古い句碑は全く読めない。


11代目の高野道文氏が建てたもの。高野道文氏は明治2年に亡くなった。

新しい句碑は高野忠治氏が建てたもの。


古い句碑を1.5倍にしてある。

 日光山に詣  芭蕉桃青

あらたふと木の下闇も日の光

此真蹟 大日堂の碑 と異同ありてしかも意味深長なりよって今茲に彫付て諸君の高評をまつ

高野道文識

 『奥の細道』の句は「 あらたうと青葉若葉の日の光 」であるが、それと異なる句があるのに気づいて、高野道文氏が句碑を建てたものらしい。

『茂々代草』 に高久青楓所蔵の芭蕉の遺墨が紹介されている。

   日光山に詣

あらたふと木の下闇も日の光
   芭蕉桃青

『俳諧書留』 には「 室八島 」とある。

   室八島

絲遊に結つきたる煙哉
   翁

あなたふと木の下暗も日の光
   翁

入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)

鐘つかぬ里は何をか春の暮

入逢の鐘もきこえず春の暮

 元禄2年(1689年)4月1日(新暦5月19日)、芭蕉は 日光東照宮 の参詣を終えて、日光上鉢石町の五左衛門宅に泊まった。

 卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。

30日とあるが、実際は4月1日。

 元文3年(1746年)3月22日、山崎北華は江戸を立って『奥の細道』の足跡をたどり、3月末日日光山に着いた。

三月晦日。日光山に着きぬ。過し年。翁此所に到られたるも。三月晦日なり。我も亦日を同しうする事のふしぎさよ。翁の到られたるは。元禄二とせの春。彌生晦日なり。今年に及びて。全く半百なり。彼佛五左衛門も死し。翁も失せ給ひて。名のみ止まれども。春は同じ春にして。此所に旅寝して。今日我も春の盡るを見る。又誰か爰に旅宿りして。春の盡るを見るなるべし。

   人も春も行くといふ名や旅の空


五左衛門宅がどこだったのか、今では分からなくなっているそうだ。

真直ぐ[は]仏五兵衛がすみがまよ

『七番日記』(文化9年10月[文化12年10月部])

 嘉永5年(1852年)4月1日、吉田松陰は鉢石に泊まっている。

夜鉢石町に宿す、行程十一里。

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