このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2009年

長楽寺〜茂吉と文明の歌碑〜
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太田市世良田町にある国指定新田荘遺跡に長楽寺がある。


世良田山長楽寺


承久3年(1221年)、世良田義季が臨済宗の寺として創建。

世良田義季は徳川家の祖とされるそうだ。

徳川家康関東入国後、天海僧正を住職として 天台宗 に改宗。

三仏堂


群馬県指定重要文化財

三仏堂の前に斎藤茂吉と土屋文明の歌碑があった。


 昭和5年9月14日、世良田 八坂神社 境内で行われた木崎節を見物のために当地を訪れた歌人 斎藤茂吉土屋文明 両先生は長楽寺に立ち寄られ、下記の歌を画帳に揮毫された。

    長楽寺即時

 おもふにし心親しももろ鳥の
    ねぐらもとむるここのみ寺に

 夕暮るるみ寺に来り浄土絵の
    青き山々灯してみつ

 尾島町の目指す文化のかおり高い町づくりと歴史公園整備計画に協賛し、かかる事跡を広く伝えるためその眞筆を写し、創立15周年記念事業としてここに建碑する。

昭和62年6月14日
太田市ロータリークラブ

紅葉が美しかった。


国指定新田荘遺跡に新田荘歴史資料館がある。


新田荘歴史資料館に新田義貞の像があった。


新田義貞 公傳

 正安3年(西暦1301年)尾島町世良田の新田館(現在の総持寺内)に生まれ、成人して鎌倉の北條氏に仕えていたが、北條氏の横暴を嫌って郷里のこの地に戻る。その後大塔宮護良親王の令旨を受け生品明神に於いて討伐の兵を挙げ、親族足利尊氏の兵を加えてもその数は200有余騎で兵力の不足を嘆く。その時新田家相傳の守本尊安養寺村 新田触不動尊 の神力に依り甲信越の親族からの援軍を得て2000有余の軍勢で鎌倉を攻め落す。時に元弘3年。義貞33才。

 後足利尊氏は北朝に仕え、新田義貞は南朝に仕う。足利氏の非行を嘆き尊氏と戦い、福井の藤島に於いて薨る。時に延元3年(西暦1338年)38才。

建設者 大澤明治

 永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は新田庄を訪れている。

 このあした、利根川の舟渡りをして、上野国新田庄に礼部尚純隠遁ありて、今は静喜、かの閑居に五六日あり、連歌二たびに及べり。

   露分けし袖に見ゆべき野山かな


 安永9年(1780年)3月25日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、新田の庄のことを書いている。

 道の右のかたに、世良田の長楽寺あり。新田の庄にならびたり。鎌倉のすゑに、世良田・新田の庄は富る者多しとて課役をかけし事の、『太平記』に載し所なり。徳河村は今の 将軍家の御先祖の地にて、一村の年貢を許されて、その由縁の人住居し給ふとかや。岩まつ村には、まだ岩松殿といふ人あり。みな新田の氏族にておはすとぞ。


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