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私の旅日記
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2004年
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間々田八幡宮
〜芭蕉の句碑〜
JR宇都宮線間々田の駅前に「蛇
(じゃ)
がまいたの像」がある。
蛇がまいたの像
間々田の蛇
(じゃ)
祭り
間々田の蛇祭りは古くはジャガマイタと言っていた。
毎年、5月5日の子供の日「ジャーガマイタ、ジャガマイタ、4月8日のジャガマイタ」と大声で竜頭蛇体の模型の大蛇を担ぎ町じゅうを練り歩く。
この祭りはかつて旧暦の4月8日の花祭りの日に行われていた。
5月5日間々田各町内で作られた蛇が間々田八幡宮に集合し、神職より祈祷を受け、蛇の口に御神酒を注ぎ、神社の拝殿をひとまわりして、境内にある池で水呑み儀式を行った後、各町内に散会して練り歩く。
間々田八幡宮
間々田八幡宮由緒
間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶2年(939年)平将門の乱が起るや、朝廷は
藤原秀郷
等に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田
(まんまだ)
の里と呼称した。
文治5年(1189年)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた
源頼朝
は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後に人これを「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治38年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道十八駅を置く行程36里なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。
また、松尾芭蕉は奥の細道紀行で江戸を出発して2日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛びこむ水の音」が建てられている。
元禄2年(1689年)3月28日(新暦5月17日)、芭蕉は
「栗橋ノ関所」
を通り、「マヽダ」に泊まる。3月29日(新暦5月18日)間々田を出発、
小山
を通って「室の八島」に向かった。
一 廿八日
マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。
一 廿九日
辰ノ上尅マヽダヲ出。
『曽良随行日記』
間々田八幡宮の池のほとりに芭蕉の句碑があった。
古池や蛙飛こむ水の音
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。芭蕉42歳の時である。
「古池」は間々田八幡宮の池ではない。
嘉永6年(1853年)、句碑建立。
元文3年(1738年)4月13日、
田中千梅
は松島行脚の途上、間々田に泊る。
古河の城を過り日も山の端にちかけれハ侭田の宿に泊りぬ
『松島紀行』
間々田八幡宮のコナラ
推定樹齢130年以上。
コナラはブナ科の落葉高木で、日当たりのよい山野に普通にみられる。
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