このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜栗橋ノ関所〜
国道4号線を北上すると、栗橋で利根川を渡る。
利根川橋のたもとに栗橋関所址の碑がある。
寛永元年(1624年)頃、栗橋に関所が設けられたらしい。
あまり知られていないが、東海道の
箱根
、甲州街道の
駒木野
、中山道の
碓氷
と並んで重要な関所であった。
栗橋関所は利根川を越えて対岸の中田宿(茨城県古河市)に行く「利根川通り壌船場」であったので、「房川渡
(ぼうせんのわたし)
中田・関所」と呼ばれそうだ。
貞亨4年(1687年)、大淀三千風は栗橋を通り、江戸へ。
○大田原より日光道を右に見なし、
宇津宮明神
ふしおがみ、
室八島
、筑波山を遠見し、くり橋 のはたしぶね、あとしら浪の卯花月八日に、江戸富田氏につく。
『日本行脚文集』(巻之七)
元禄2年(1689年)3月28日(新暦5月17日)、「栗橋ノ関所」を通り、
「マヽダ」
に向かった。
一 廿八日
マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。
『曽良随行日記』
元文3年(1738年)3月23日、山崎北華は栗橋で利根川を越え、古河へ。
長宮
を出て栗橋の川を越て。古河の宿に夢見。岩船山見むと。した宮といふへ懸り。高すね。したいぶせ。篠山などいふ所を通。佐野川左に流れ。堤つゞきたる道なり。藤岡といふ里に出づ。此所菅笠をつくり。營とす。夏近き粧明らかなり。
菅笠の溜りや民の夏支度
『蝶之遊』
元文3年(1738年)4月13日、田中千梅は松島行脚の途上、利根川を渡り間々田に泊る。
利根の渡
り 栗橋川也
こへ行ば早下野の國也都賀郡乙女村おもひ川なんといふなまめきたる名にていか成謂にや
『松島紀行』
明和6年(1769年)4月5日、蝶羅は奥羽行脚の途上栗橋で句を詠んでいる。
栗橋 のわたしにて
音にきく坂東太郎ほとゝぎす
蝶羅
『松のわらひ』
嘉永5年(1852年)4月4日、吉田松陰は栗橋の関所を通る。
川を下ること二里許り、左岸を中田と爲し、右岸を栗橋と爲す、即ち奥州街道なり。陸に上れば關あり、御代官竹垣三右衛門支配所なり。
『東北遊日記』
平成22年(2010年)3月23日、栗橋町は久喜市、菖蒲町及び鷲宮町と合併、久喜市となった。
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