このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2008年
〜
宇都宮二荒山神社
〜若山牧水〜
宇都宮市馬場通りに宇都宮二荒山神社がある。
寿永4年(1185年)2月20日、源平屋島合戦で「那須与一の扇の的」のエピソードがある。『吾妻鏡』にはない。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、
日光の権現
、宇都宮、那須の
湯泉大明神
、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
『平家物語』(卷第十一)
文治5年(1189年)7月25日、頼朝軍は奥州攻めの途上宇都宮神社に戦勝を祈願した。
二品下野の国古多橋の駅に着御す。先ず宇都宮に御奉幣御立願有り。今度無為に征伐せしめば、生虜一人神職に挙ぐべしと。則ち御上箭を奉らしめ給う。その後御宿に入御す。
『吾妻鏡』
宇都宮二荒山神社の石段
貞亨4年(1687年)、大淀三千風は江戸へ向う途中で宇都宮神社に参拝せている。
○大田原より日光道を右に見なし、宇津宮明神 ふしおがみ、
室八島
、筑波山を遠見し、
くり橋
のはたしぶね、あとしら浪の卯花月八日に、江戸富田氏につく。
『日本行脚文集』(巻之七)
元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で宇都宮二荒山神社に登り、句を詠んでいる。
宇津宮へかゝり、社頭に登て叩首
(ぬかづく)
に、額日光宮と書リ。二荒を遷敬し奉る
(り)
けるにや。
○笠脱ば天窓撫行一葉哉
[無都遅登理 五]
享保元年(1716年)4月16日、稲津祇空は奥羽行脚の途上早見晋我・常盤潭北と宇都宮二荒山神社を訪れている。
十八日、うつの宮にゆく。正一位勲一等日光山大明神と額にあり。宮殿たかし。
緑くらく町かゝへたり一宮居
『烏絲欄』
元文3年(1738年)4月15日、田中千梅は松島行脚の途上、宇都宮二荒山神社に参詣している。
十五日逗留宇都宮大明神に詣す或抄に宇都宮ハ日光権現の別宮と云り正一位勲一等日光大明神の額あり
『松島紀行』
宇都宮二荒山神社
下野国
一宮
である。
御祭神は豊城入彦命
(とよきいりひこのみこと)
、日光の
二荒山神社
と祭神が異なる。
大正9年(1920年)4月19日、
若山牧水
は宇都宮二荒山神社表参道の桜を歌に詠んでいる。
ひとしきり散りての後をしづもりてうららけきかも遠き桜は
宇都宮二荒山神社からみはし通りを行くと、町中を釜川が流れる。
釜川に架かる御橋の下流に若山牧水の歌碑があった。
まちなかの小橋のほとりひややけき風ながれゐてさくら散るなり
第13歌集『黒土』所収の歌である。
昭和63年(1988年)7月、釜川の河川改修を記念して歌碑建立。
『若山牧水歌碑インデックス』(榎本尚美、榎本篁子著)によれば、全国で155番目の牧水碑である。
私の旅日記
〜
2008年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください