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私の旅日記
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2004年
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足利学校
〜孔子像〜
鑁阿寺
と道を隔てて、足利学校がある。
水堀と土塁の向こうに足利学校が見える。
足利学校
釋菜の跡のしらへや春の鳥
鈴木荘丹
『能静草』
水堀に鴨がいた。
水が緑である。
国指定史跡 足利学校
足利学校の範囲と規模は年代によって異なり、最盛期の室町時代の遺構は明らかではない。指定時には、既に東の半分が小学校となり建物等が取り払われていた。近年、史跡の整備を進め、東部分を江戸時代中期の姿に復元した。
足利学校には3つの門がある。
最初の門が入徳門。
入徳門を入ると、孔子の像がある。
孔子像
2つ目の門が学校門。
学校門を入ると、字降松
(かなふりまつ)
がある。
字降松
足利学校の第7世庠主
(しょうしゅ)
(校長)玉崗
(ぎょくこう)
和尚は自ら九華老人と称したが、その頃廟の前に1本の松があった。学生が読めない文字に出合った時、紙に書いてこれを松の枝につけておくと、和尚が見てふり仮名や注釈つけてくれたので、誰いうとなく字降松と呼ぶようになり、遂には町の人々までこの松に教えをうけたという。
孔子廟
孔子廟は儒学の祖孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。
3つ目の門が杏壇門。
杏壇門は明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて30年代に再建されました。
大成殿
大成殿は寛文8年(1668年)に建てられました。
この孔子廟で孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠
(せきてん)
という儀式が行われます。
永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は足利學校を訪れている。
足利の学校に立ち寄りて侍れば、孔子・子路・願回、この肖像あり。諸国の学徒頭をかたぶけて、日暮し硯に向へる体はかしこくかつ哀れにも見え侍る。
『東路のつと』
宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、足利学校を訪れている。
足利に至りては、魚遠といへる人のねもごろに沙汰せしかば、学校の吏案内して、聖堂へ東階より上る。帷の中に安置せし聖像は、宋の時渡せしとぞ。金の団をも給へり。右の壇は参議篁の卿の肖像、左は蓍室也。
『松しま道の記』
享和3年(1803年)、乙二は足利学校に赴いた。
足利学校
ふむまじよ冬の薺もむかしめく
『乙二句集』
嘉永5年(1852年)4月3日、吉田松陰は足利學校を訪れた。
聖廟を拝す。廟には大成殿の字を扁ぐ。廟中分かちて三區と爲し、中に孔子の木像を安んず。像甚だ古色あり、宋代の物なりと云ふ。像の側に顔・曾・思・孟の木主を列ね、左に小野篁の像を置く。右區の檐
(※「檐」は「木」+「眉」)
に入徳の二字を扁ぐ、正門の外に舊くは入徳門ありしと云ふ。廟門は正門と相當り、杏壇の二字を扁ぐ。
『東北遊日記』
方丈
平成2年(1990年)、足利学校中興550年祭で江戸時代中期の姿に復原。
庭園
鑁阿寺
(ばんなじ)
に戻る途中に、足利尊氏の像があった。
征夷大将軍足利尊氏像
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