このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
千住本陣跡
〜
史蹟
高札場〜
JR常磐線北千住駅から北千住駅前通りを行き、千住2丁目交差点でサンロードに入る。
サンロードは旧日光街道である。
千住2丁目と千住3丁目の境界をなす小道は、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄かなり重要な通りだったそうだ。
千住本陣跡(
■
の部分)
この小道の北側一帯が本陣で、千住宿ではここ1ヶ所だけ。
安永9年(1780年)4月4日、蝶夢は木曽路を経て江戸に入る前に千住宿に泊まっている。
粕壁・越谷を過て、江戸に入らん[と]するに、千住の駅の家々に、君どもなまめかしく居ながれて糸ひきうたふに、同行のわから人、心うかれて「道行べき心もなし」といふに、をのれのみ「いぶせし」と行んも、例のむくつけ法師よ、と思ひはゞからんにや、と長が許にたちよりて笠をぬぐに、「こゝろとむな」といふべきあるじぶりにもあらで、また申のかしらより宿りて寐にけり。
『東遊紀行』
旧日光街道を歩くと、千住本町公園がある。
千住本町公園
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長2年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。
江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。
特に寛永2年(1625年)
東照宮
建立によって、日光道中初宿として、また江戸4宿の1つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っております。
このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。
千住の街並み景観を考える会
千住関屋には
建部巣兆
(たけべそうちょう)
がいた。
巣兆は
加舎白雄
の門人。長翠、道彦、保吉、碩布、春鴻、葛三、
虎杖
とともに白雄八弟の一人。成美・道彦とともに江戸の三大家といわれた。
文化5年(1808年)6月14日、
小林一茶
は流山に行く途中で建部巣兆を訪れ、昼食。
十四日、晴
熱田明神
の祭有、千住秋香庵中飯。小菅村水戸橋ふしん、舟渡し。
新宿
より高須村といふ所に堤有、去卯六月三日洪水に破れて、新堤によし簀引はりて餅など売有。足を休。
六月や草も時めくわらじ
(ぢ)
茶屋
泣堀通流山ニ入
『文化五年六月句日記』
文化8年(1811年)11月28日、小林一茶は建部巣兆を訪ねて千住を訪れている。
廿八 晴 卯中刻千住行 房州ヨリ画タノミ来ル故也
『七番日記』(文化8年11月)
嘉永4年(1851年)12月14日、吉田松陰は東北遊歴の旅に出る。千住橋を越えて千住駅に至る。
千住橋を越えて千住驛に至る。日本橋よりここに至る二里、皆連甍
(れんぼう)
鱗々たる中なり。右折して道を取る。是れを水戸道と爲す。道狭く家稀に、四顧すれども山を見ず、唯だ平田の漫々たるあるのみ。
『東北遊日記』
千住名倉医院
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