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私の旅日記
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2006年
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千住名倉医院
〜『江東歳時記』〜
千住本町公園
から旧日光街道を歩くと、千住名倉医院がある。
千住名倉医院
千住5−22−1
ほねつぎといえば名倉、名倉といえばほねつぎの代名詞になるほど、往時の名倉医院は関東一円に知られ、下妻道に面し、日光道中や水戸海道分岐点を間近にして便がよかったから駕籠や車で運ばれて来る骨折患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。
東へ 旧水戸佐倉道
北へ 旧日光道中
北へ
旧下妻道
北西へ
旧日光道中
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716〜)千住に移り、明和年間(1764〜)に接骨医を開業したと伝わる。
現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年12月区登録記念物(史跡)とした。
かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる下宿屋、金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋があって、その主人が名倉医院で治療に当る医師及び接骨師を兼ねていた。
東京都足立区教育委員会
昭和33年(1958年)、
石田波郷
は名倉医院を訪れた。
笹鳴や骨折患者ひそと寄り
現院長の祖父は幕末榊原謙吉の弟子で、榎本武揚、勝海舟、福地桜痴などよくここをたまりにして遊んでいた由。長押に鹿島流の棒や素振りの木刀が今もかかっている。古い長屋門といい、玄関の式台といい、畳敷の診察室、帳場格子の会計など古くいかめしい。昔は長屋を入ると玄関の向かって左に高張がかかげてあった。文政の千住の大火「たけあずま」火事でも焼け残ったというから、今の旧街道の古い家々よりも古い。
『江東歳時記』(千住5丁目名倉医院で)
「笹鳴」は、冬にウグイスが舌鼓を打つようにチチと鳴くこと。冬の季語。
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