このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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東海道
東海道
七里の渡
桑名市東船馬町に「
史跡
七里のわたし」の碑があった。
「史跡
七里のわたし」の碑
三重県指定史跡
東海道五十三次
七里の渡跡
桑名宿
と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、江戸時代の
東海道
唯一の海路で、その距離が7里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど桑伊勢国の東の入口にあたるため、
伊勢神宮
の「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられました。
七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
昭和33年(1958年)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959年)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。
桑名市・桑名市教育委員会
伊勢国一の鳥居
貞亨元年(1684年)、芭蕉は『野ざらし紀行』で桑名から熱田へ船旅をしている。
桑名に遊びてあつたにいたる
あそび来ぬ鰒釣かねて七里迄
芭蕉
『熱田皺筥物語』
正徳5年(1715年)冬、
千梅
は桑名から「七里のわたし」を船で渡る。
明
ケ
の日ハ桑名泊り翌あさふね也駿風時の間に熱田に着
「東武紀行」
安永9年(1780年)4月28日、蝶夢は江戸からの帰途、「七里の渡」を渡り桑名に着いた。
廿八日、空曇れども風よしとて、朝とく舟に乗るに、はからずも、きのふ見まどひける法師も同じ舟に来りて、舟の中つれづれならず。左は尾張の知多よいふ郡、海の中へさし出たり。右は美濃の山々ならび立たり。昼の鼓の城に聞ゆる比、桑名につく。
『東遊紀行』
文化2年(1805年)11月9日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で桑名の海をわたる。
九日の朝空はれしに卯の時ばかりに船にのりて、桑名の海をわたり、未の時の頃宮の宿につく。こゝに名古屋の諸士多くまちとりて、酒をすゝめんといふ。ことに秦鼎は年久しく志れる人なり。
『小春紀行』
文化年間、宮の渡し船賃。
乗合一人
五十四文
荷いもの
五十四文
挟箱
五十四文
駕篭
一丁六十七文
嘉永4年(1851年)3月26日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、桑名から「七里の渡」を渡り熱田に着く。
一、二十六日 翳。桑名の海を航して宮に抵る。海程七里。
『東遊日記』
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