このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

塩路沂風
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紀伊の人。真宗高田派の僧侶。名は琳澄。 蝶夢 の門人。別号得往。

 安永4年(1775年)10月12日、 高野山 に芭蕉の句碑を建立。池大雅筆。碑陰に三世雪中庵 蓼太 の「雉子塚の銘」が刻まれている。



はせを翁

父母のしきりにこひし雉子の声

 安永7年(1778年)、 義仲寺 に入り、第六世無名庵主となる。

 安永8年(1779年)2月21日、 蝶夢 は沂風を伴い京を発して出雲に旅立ち、4月5日、須磨に帰り着く。 『雲集紀行』

 安永10年(1781年)4月2日、天明に改元。

 天明元年(1781年)9月11日、沂風と 重厚千代倉家 を訪れて芭蕉の笈を見ている。

九月十一日 曇 粟津義仲寺沂風、嵯峨落柿舎重厚、右両子翁笈拜見来。見せ遣。

『千代倉家日記抄』(学海日記)

 天明3年(1783年)3月5日、沂風は千代倉家を訪れている。

三月五日 晴天 粟津義仲寺沂風子御出。

永き日や語も床し翁寺
   学海

笠かたむける花の下かげ
   沂風

『千代倉家日記抄』(学海日記)

 天明4年(1784年)10月12日、尺艾は義仲寺時雨会に参列した後、沂風と京の五升庵 を訪ねた。

 天明6年(1786年)、沂風は祥然と筑前を行脚。

 天明7年(1787年)8月、 『宰府日記』 (沂風編)祥然序。

 寛政2年(1790年)、蝶夢の援助で粟津文庫を創設。

 寛政3年(1791年)、沂風は筑紫に旅をしたようである。

   築(筑)紫に旅寝して
  行脚
時雨せよ檜垣か家の集よまむ
   沂風

   同し旅行に

背負ふものみなうち着たり初しくれ
   一萍


寛政12年(1800年)4月、49歳で没。

滋賀県大津市の 芭蕉道統歴代句碑 に沂風の句がある。



かくしても遂に散りけり冬牡丹

沂風の句

芋生し土うつ高し冬かまへ

時雨会や道々ぬれし墨の袖


塚にまつしくれて嬉し苔の色


殊更に時雨を軒にきく夜哉


帰らむと月にそむけバ影五尺


寒苦鳥といふものゝ翌日は巣作らんと啼けるも明れば忘るゝとや、人もその事かの事心にはかりて月日ぞうつりゆく

是ほどは何なした日ぞ古暦


かへらんと月にそむけば影五尺


葉桜に鵯こもる深山かな


有明にせまりて白し寒の梅


あつき日や袈裟ぬふ尼の目の疎き


柳より空ふく風やいかのぼり


うくひすの足にかけけり蔦かつら


三井寺の兒髪そりて後の月


花守の宿も桜の木の間哉


心ある海人の施物やのり二升


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