このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

高野山〜碑巡り〜
indexにもどる

高野山の 奥の院 参道を下ると、織田信長墓所、筒井順慶の供養塔があった。

高浜年尾の句碑


一水の緑蔭に入るところかな

昭和57年(1982年)6月6日、建立。

高浜年尾は 高浜虚子 の子。

豊臣家墓所
県指定史跡

 この墓所の正面には、 豊臣秀吉 公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と婦人など豊臣一族の墓があります。

 織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山応其(おうご)上人の説得により、高野攻めを取りやめ、以後応其上人の言葉に耳を傾け、高野山を庇護するとともに復興興隆につとめられました。

稲畑汀子の句碑


萬丈の杉の深さや五月闇

稲畑汀子は高浜年尾の娘。

御供所の道標に 其角の句碑 があった。


卵塔の鳥居やげにも神無月

元禄7年(1694年)10月、 其角 が高野山を訪れて詠んだ句。

安芸浅井家墓所

 浅野幸長は紀伊和歌山37万6,000石に移封、その跡を継いだ幸長の弟浅野長晟は安芸広島藩42万6,000石の領主となる。播磨赤穂藩は分家。

芭蕉の句碑


はせを翁

父母のしきりにこひし雉子の声

出典は 『笈の小文』

貞亨5年(1688年)春、芭蕉が 杜国 と高野山を訪れて詠んだ句。

安永4年(1775年)10月12日、 沂風 建立。

ほろほろと。鳴は山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。おもひしたへる。いにしへの。良辯のかの。ふるうたに。かよふ心の。十あまり。なゝつの文字を。石に今。きざミてこゝにたつかたミ。紀の高野なる法の月。雪にさらして。すゑの世も。くちぬためしを。この国に。この道したふ。泝風てふ。人のまことを。かきぞとゞむる。

雪中菴蓼太

『紀伊國名所圖會』(三編六)に拠る。

山口誓子は芭蕉の句碑を見ている。

 脇参道より参道に入ってしばらく進むと、左側に芭蕉の句碑が立っている。自然石。

   父母のしきりにこひし雉子の声

 「芳野紀行」の芭蕉は、吉野から高野に来て、この句を作った。山中に雉子の啼く声を聞いて、亡き父を想い、亡き母を想い、逢いたくてならなかった。雉子の声を聞いて父母を想ったのは、行基菩薩の「やまどりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ母かとぞおもふ」が契機になったのだ。

 句碑の字は、大雅の書。石の全面にはびこり、その彫りは大きく浅い。

 私は大雅の書が好きである。殊に行書が好きである。私は大雅の「行書千字文」を座右に置き、こころ貧しきときはそれを見て、恍惚となる。かたらず、やわらかからざるその行書に。

 そんな私だから、大雅の書いた芭蕉のこの句碑を事の外珍重するのだ。

 建立は安永四年。


英霊殿の前に白象の句碑


涼しさや奥の院まで坂もなく

 昭和59年(1984年)5月20日、弘法大師御入定壱千年後遠忌奉修記念に建立。

高野山真言宗管長第四百六世金剛峯寺座主
大僧正森寛紹和尚白象と号す

愛媛県重信町(現:東温市)出身。高浜虚子に師事。

松山市の 梅津寺公園 にも句碑がある。

本居宣長の歌碑


敷島の大和心を人問はゞ朝日ににほふ山桜花

大正14年(1925年)8月4日、斎藤茂吉は高野山を訪れている。

みなみより音たてて來し疾きあめ大門外の砂をながせり

くにぐにの城にこもりし現身(うつせみ)も高野の山に墓をならぶる

紀伊のくに高野の山に一日ゐて封建の代の墓どころ見よ

『ともしび』

今年の旅日記 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください