このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

高野山〜奥の院参道〜
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高野山の奥の院参道を行く。

右手に 与謝野晶子の歌碑 があった。


柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

昭和25年(1950年)5月29日、與謝野晶子顕彰会建立。

昭和32年(1957年)8月、山口誓子は天狼第一回の鍛錬會で高野山に登った。

   眞別處

高野より雲加はりて鰯雲

『方位』

参道の左手に 山口誓子の句碑 があった。


夕焼けて西の十萬億土透く

『晩刻』に収録の句。

昭和36年(1961年)6月、金剛峰寺俳句会建立。

9番目の誓子句碑である。

山口誓子は自分の句碑を見ている。

 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遙かに遙かに十万億土が見える。透いてありありと見える。自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。建てるとすれば、大門の前が最も然る可きであるが、そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて脇参道に西を向いて立つことになったのである。そこも西に展けている。

 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は

   高野より雲加はりて鰯雲

という句を提出した。その句は採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。

 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。


花菱アチャコの句碑


笑われて浮世をおくる顔にで来

御供所


昭和5年(1930年)7月13日、 高浜虚子 は高野山に遊ぶ。

這入りたる虻にふくるる花擬宝珠

炎天の空美しや高野山

      昭和五年七月十三日 旭川、鍋平朝臣等と高野山に遊ぶ。


御供所の前に 高浜虚子の句碑 があった。


炎天の空美しや高野山

昭和26年(1951年)6月10日、金剛峰寺俳句会建立。

 昭和二年の作。同二十六年六月、この句碑が高野山金剛峯寺境内に建てられた。高さ六尺の角碑で、彫も深く、どっしりとしたものである。(高野山森白象氏報)


山口誓子は虚子の句碑を見ている。

 玉川を渡って奥の院に到り着けば、右へ折れたところに虚子の句碑が立っている。御影石の背の高い角柱碑である。

   炎天の空美しや高野山

 昭和五年の作。真夏の高野山に来て見ると、炎天の空がある。高山の炎天の空は微塵のけがれもなく、その美しさは極まっている。それを「炎天の空美しや」と詠嘆したのだ。その詠嘆は直ちに、読む者を動かす。

 「高野山」がただ高山だからではない。法(のり)の山だからである。

 高野山を詠ってこれ以上の句はない。今後も出ることはあるまい。

 建立は昭和二十六年。石の割合に字が小さい。


御廟橋の先は撮影禁止。

奥の院参道


 延宝2年(1674年)8月5日、 西山宗因 は奥の院の御廟を参拝している。

五日に、入道して御廟をおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊に水を手向、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて、

入月や爰にとゞまる高野山
   宗因

「高野山詣記」

 昭和5年(1930年)8月4日から8日に亙り、高野山の清浄心院で第6回アララギ安居会を開いた。

   高野山

      八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六回
      安居會を開く

ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を超えにき

ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野の山に水おちたぎつ

紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける

高野山あかつきがたの鉾杉に狭霧は立ちぬ秋といはぬに

『たかはら』

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