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私の旅日記2014年

福井城祉〜結城秀康公〜
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福井市大手に福井城祉がある。


福井城内堀


福井城内堀公園に三岡八郎・横井小楠の「旅立ちの像」があった。


平成9年4月、建立。

 安政5年(1858年)冬、横井小楠の一時帰国に同行して三岡八郎は九州に旅立った。目的は、長崎での物資販売ルートの開拓であり、この成功により藩財政は著しく改善され、福井藩は幕末の雄藩としての地位を固めていった。

三岡八郎【由利公正】(1829〜1909)

 幕末の福井藩士。若くして藩財政に興味を抱き独力で5年間にわたる調査を実施した。幕末四賢公の一人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、横井小楠が福井に招かれると小楠の理論を実践し藩財政の立て直しに成功した。坂本龍馬と親交が深く、慶応3年(1867年)龍馬が福井を訪れた目的の一つは、八郎の新政府への参画を促すことであった。

 新政府では財政面の責任をにない、また五箇条誓文の原案を起草したことは有名である。明治4年(1871年)、初代東京府知事となり、東京の近代化に尽力した。

横井小楠(1809〜1869)

 熊本藩士。幕末期の最も進歩的な思想化の一人であり、勝海舟、 坂本龍馬 なども一目置く存在だった。

 福井藩主松平春嶽は小楠の実力を見抜き、彼の派遣を熊本藩に要請した。この英断により安政5年(1858年)小楠は福井藩の政治顧問に招かれ、三岡八郎等を指導し、藩政改革にその思想を反映させた。文久2年(1862年)春嶽が幕末の先頭に立つ役職である政治総裁職に就任すると、そのブレーンとして国政に大きく関与した。

 文久3年(1863年)福井藩を辞去し熊本に帰国。大政奉還後に新政府に招かれたが、明治2年(1869年)京都で暗殺された。

御本城橋を渡ると、福井県庁がある。

 ここは、福井城の本丸跡で、周囲の内堀は往時のままです。福井城は慶長6年〜11年(1601〜06)に徳川家康の次男、結城秀康によって築城されました。秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669年)に焼失してしまいました。

 藩の権威を象徴していたのが本丸の北西隅に聳えていた天守で、高さが約30mという壮大な建物でした。中央には藩政において最も重要な本丸御殿がありました。北東・南東・南西の各隅には3つの櫓が建っていました。南側の御本城橋から本丸への正式な通路で、この橋を渡ると、本丸の正門である瓦御門がありました。西側には屋根付きの御廊下橋もかかっていました。現在の御廊下橋は平成20年に資料に基づいて再建されたものです。

福井県庁前に結城秀康の石造があった。


結城秀康公

慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い 後、越前68万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町と大改造に着手した。多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、都市として福井の原形をかたちづくり、今日の福井発展の礎となった。

(財)歴史のみえるまちづくり協会

控天守台跡の石垣


この控天守台跡の石垣には福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っています。 厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。

御廊下橋


福井城址 御廊下橋

福井城と御廊下橋

 関が原の戦いの後、越前に封じられた福井藩初代藩主結城秀康によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭でした。

 本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、昌親(後、吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の5人は、現在の中央公園にあった西三ノ丸御座所に居住されていたとされます。(松平春嶽著「真雪草紙(みゆきぞうし)」)

御廊下橋の復元

 福井県と福井市は、福井城築城400年を機に、この橋を復元することにより、県民市民の皆様に故郷の歴史に親しんでいただき、また、故郷への愛情、誇りを思い起こしていただきたいと考え、皆様との協働による復元に着手しました。

 史実に忠実な復元とするため、専門家で構成した「復元考証専門委員会」による検討を重ねたほか、県民市民の代表で構成した「整備推進委員会」において、この事業の意義を多くの方々に知っていただき、また、事業への参画を推進していく取り組みを企画しました。

 「ワンコインサポーター運動」「ヒノキ板購入運動」はその一環として実施したものであり、多くの方々の参画をいただきました。

 ご協力いただきました募金、寄付金は、この案内板を設置させていただきました。

中央公園に岡田啓介像があった。


岡田啓介(1868〜1952)

 岡田啓介は、明治・大正・昭和時代の海軍軍人・政治家です。

 1936年2月26日、陸軍の青年将校が武力で政治をうばい取ろうと二・二六事件を起こしました。当時首相をつとめていた啓介は襲撃を受けましたが、九死に一生を得ました。

 その後、1941年には当時の東条英機内閣のもとに太平洋戦争が始まりましたが、1945年に啓介などのすすめで成立した鈴木貫太郎内閣のもと、太平洋戦争は終戦を迎えました。

 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し占領が終わると、啓介は日本の主権回復を見届け安心したかのように、同年10月17日に亡くなりました。

岡倉天心先生像


岡倉天心 文久2年〜大正2年(1862〜1913)

 名は覚三。越前藩士の子として生まれ、幼少より英文、漢籍に親しみ東京大学を卒業後に、文部省に奉職、日本美術の振興、文化財の保護に尽力、 東京美術学校長 を辞職後、雅邦、大観、春草、武山らを率いて日本美術院を創立し、近代日本画を育成、米国に渡り ボストン美術館 東洋部長として「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など英文著書を著わす一方、米国各地で講演し、その高い識見、円満なる人格は西欧人より深く尊敬された。

 初めて日本と東洋の「心」を西欧に紹介した超人的な業績は不滅であり、伝統の尊重と模倣を排し、創造を説いた言葉は永遠の真理として生き続けるであろう。

岡倉天心先生顕彰会

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