このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

関ケ原の戦い〜徳川家康最後陣跡〜
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東首塚 から旧北国街道を歩いて、徳川家康最後陣跡へ。

関ケ原豆知識

島津義弘

甥の島津豊久と共に約千の軍勢を率いて参戦。西軍が敗走する中、家康本陣の前を敵中突破。追撃により多くの犠牲を払う猛烈な撤退戦を行った。

横   槍

両軍が戦っているときに、、別の部隊が側面から槍で攻撃すること。そこから、仕事中などに第三者が横から口を出して妨げる行為「横槍を入れる」の語源となった。

北国街道

中山道関ケ原宿から分岐して近江木之元宿に至る街道。越前街道・北国脇往還とも呼ばれた。古くから美濃と越前方面を結ぶ要路であり、関ケ原合戦では西軍諸将の敗走路となった。

家康の癖

家康は爪を噛む癖があった。松尾山から動かない 小早川秀秋 に苛立ち、爪を噛んでいた。その苛立ちは馬に乗ったまま前を通った家臣を斬りつけるほどだったという。

家康の食生活

家康は、贅沢な食事をせずに質素なものを中心に摂っていた。また健康に良いと聞けば様々なものを試し、自身で漢方を調合していたとも言われている。

甲斐墓田中吉政陣所古址


田中吉政陣跡

 田中吉政は、約3,000の兵を率いて細川忠興や黒田長政らとともに 石田三成 と戦い、激戦の末、最後は諸将と共同して石田隊を壊滅させている。

 合戦後、徳川家康に、逃走した三成の探索を命じられた吉政は、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた三成を捕縛する大功を挙げた。吉政は、同じ近江出身で親しい仲だった三成を丁重に遇したといい、三成はその礼として、豊臣秀吉から拝領し、最後まで佩用していた脇差「切刃定宗」を授けたと伝わる。

徳川家康最後陣跡


 慶長5年(1600年)9月15日午前6時頃、 徳川家康 は桃配山に布陣していたが、戦況が把握できないため、午前11時頃、笹尾山の 石田三成本陣 からわずか数百メートルのこの地に本陣を移し、全軍の指揮にあたった。善戦する西軍にいらだっていた家康は、東軍に内応する約速をしたにも関わらず、一向に動こうとしない小早川秀秋に業を煮やし、最後の手段として、松尾山の秀秋の陣に向け威嚇の鉄砲を撃ちかけさせたともいわれる。正午を少し回った頃、遂に秀秋の采配が振られ、11,000余の大軍が松尾山を駆け下り、大谷吉継隊に襲いかかった。これで戦いの流れは決し、東軍の猛進に耐え切れなくなった西軍は次々に敗走、午後2時過ぎには総崩れとなった。

 その状況下、西軍で最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、突如この本陣前に猛烈な勢いで迫り、そのまま駆け抜けた。義弘は猛進する東軍から辛うじて逃れ、戦線から離脱した。

 これをもって関ケ原の戦いは終結し、家康はこの本陣で首実検を行った。

史蹟關ヶ原古戰場徳川家康最後陣地




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