このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
関ケ原の戦い
〜東首塚〜
JR東海道本線
柏原駅
から関ヶ原駅で下車。
JR東海道本線を越え、松平忠吉・井伊直政陣跡へ。
茨原
松平忠吉・井伊直政
陣所古址
松平忠吉・井伊直政陣跡
徳川家康の四男松平忠吉と、その舅で徳川四天王の一人として名高い井伊直政は、ここより約200メートル東、現在のJR関ヶ原駅付近に約6,000の兵を率いて布陣した。忠吉はこの戦いが初陣で、直政が後見役を務めた。
関ケ原に布陣した徳川家直属の兵力は、家康の本隊約30,000、他に本多忠勝の約500のみ。家康の嫡男・秀忠が率いる別動隊は、未だ東山道(中山道)の途上にあり間に合わない。このため、先鋒は豊臣恩顧の福島正則に任されていた。
しかし、徳川家が先陣を切ることが重要と考えていた直政は、午前8時頃、忠吉とともに数十騎を従え、福島隊の脇を進み抜け駆けする。正則の家臣可児才蔵(吉長)に咎められるが、直政は初陣の忠吉に合戦の見聞をさせると弁明し、そのまま宇喜多秀家隊に近づき発砲。抜け駆けされた福島隊も続いて発砲し、戦いの火蓋が切られた。
戦いは東軍の圧勝で幕を下ろすが、直政と忠吉は戦いの終盤に戦地から脱出する島津義弘隊を追撃するうち、反撃を受け負傷してしまう。二人はこの傷が原因で後に亡くなったという。
史蹟
關ヶ原古戦場
東首塚
関ケ原の戦い 東首塚
関ケ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言われる兵が集結した。戦死者数は諸説あり未だはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ケ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。敷地内には文化14年(1817年)に建てられた首級墳碑が残る。
墳墓は、国史跡指定された昭和6年(1931年)の官報に、「周囲5間、高さ5尺(周囲9メートル、高さ1.5メートル)の円塚」とあるが、風化によるものか現在はその形を留めていない。玉垣に囲まれそびえるスダジイの古木が残るのみである。
唐門と供養堂は、尾張藩第七代藩主・徳川宗春に関連する建造物といわれる旧山王権現社(名古屋市)の一部を昭和17年(1942年)に移築したもの。
戦いの後に敵味方の区別なく供養を行うのは当時の習わしであり、東西両軍の戦死者の供養は、現在に至るまで時代を丁重に行われている。
唐門
供養堂
首級墳碑
文化14年(1817年)、関ケ原宿本陣の主を務める古山兵四郎は、関ケ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧し、首級墳碑を建設した。要旨は次のとおり。
「
徳川家康
が東国で勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権が不利と見て石田三成は兵を挙げた。慶長5年(1600年)9月、関ケ原において両勢力が激突したが、三成側が大敗。家康は東西2箇所に首塚を造り、全ての首や遺骸を葬らせた。豊臣のために犠牲になった者を納め葬ることは仁義に厚く、家康の教えが泰平の世をもたらしたといえる。将来この首塚が丘や谷に変わり果てることのないよう願うものである。」
徳川家康最後陣跡
へ。
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