このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

小浜城跡〜小濱神社〜
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小浜市城内に小濱神社がある。


小濱神社(旧社格県社)

御祭神
 酒井讃岐守忠勝公
 天御中主命

由 緒

酒井忠勝公、國家治政輔翼に偉大な勲績あり、若狭國就封より、領民其徳沢に追慕の至情止難因て若狭國及越前敦賀士民有志により、明治八年五月二日官許を得て、この小浜城本丸跡に社殿を創建、城地に祀る。

天御中主大神を合祀し仝年九月二十五日大祭を斎行した。

小浜城跡である。

小浜城別称雲浜城

慶長6年(1601年)京極高次が着工し、その子忠高に至る33年間に城の大半を造り、寛永11年(1634年)酒井忠勝が藩主となり、寛永15年三層の天守閣を築いた。

本丸の石垣


人の駅 酒井忠勝

 初代酒井小浜藩主の酒井忠勝は、天正15年(1587年)、酒井忠利の長男として三河国西尾(愛知県西尾市)で生まれました。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川秀忠が信濃の真田昌幸・幸村父子を攻めた戦で初陣を果たしました。元和6年(1620年)2代将軍秀忠は、世継ぎとなる子徳川家光に忠勝を近侍させ、2年後には1万石を加増して大名にしました。寛永元年(1624年)に老中、1627年には武蔵国川越で10万石を得て、寛永11年(1634年)には11万3500石で小浜藩主として小浜に入部しました。同14年(1637年)大老に就任し、4代徳川家綱を補佐する幕府の重鎮として活躍しました。明暦2年(1656年)隠居し、万治3年(1660年)剃髪して空印と名乗りましたが、幕政にはなお大きな影響を持ちました。初代酒井小浜藩主として小浜の町づくりの基礎を築くと同時に、この小浜城を完成させました。

小浜城跡


  関ヶ原合戦 の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601年)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城(みずき)として築城を始めた。別名を、雲浜城とも呼ばれる。寛永11年(1634年)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭11万3500石の藩主となり、天守閣の造立に着手、寛永19年(1641年)40余年の歳月をかけて小浜城は完成をみた。

 以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎える。

 明治4年(1871年)12月、大阪鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を消失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。

石垣から見下ろす


観光客はいなかった。



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