このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

越前大野城〜金森長近〜
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大野市の 越前大野城 (HP)に行ってみた。


金森長近

 織田信長の武将です。軍功により天正3年(1575年)に信長から大野郡の3分の2を与えられ、越前大野城を築城しました。越前大野城は平山城の形式で、亀山の山頂に本丸が置かれ、亀山の東麓に二の丸や三の丸、内堀や外堀が配されました。

 また長近は、城下町の建設も行い、亀山の東側に今の町割りの基礎となる街路や水路を整備しました。

 本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586年)、飛騨国を与えられ、大野から 飛騨高山 へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。

金森長近公像


野面積み

 越前大野城の石垣は、野面積みという自然石を加工しないで積み上げる16世紀後半の古い形式の石垣です。すき間に詰め石があるなど、外観は粗雑に見えます。しかし、水はけが良いため、実はたいへん堅固な造りとなっています。

 石垣の工法は、野面積みから「打ち込みはぎ」や「切り込みはぎ」といった、石をたがねで加工し、形を整えてから積みあげる工法へと移っていきます。 福井城 や金沢城などの石垣は、そのような工法で造られています。

越前大野城


越前大野城跡(福井県指定史跡)

 越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mと、その東側に縄張を持つ平山城跡です。織田信長の部将・金森長近により天正年間(1573〜93)の前半に築城されました。

 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。

 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天守と2層2階の小天守・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。

 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775年)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795年)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。

お福池に映る小天守


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