このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

観世音寺〜山崎斌の歌碑〜
indexにもどる

観世音寺 参道の左手天智院に山崎斌の歌碑があった。


筑紫なる遠の御門の趾どころかんぜおん寺の鐘けさも鳴る

昭和49年(1974年)春、月明会福岡支部建立。

   月明会主宰

 山崎斌氏は信州の人。「草木染」の命名者でもあるが、島崎藤村に師事し、もともと小説家でもあり、また歌人であり、俳人でもあった。白秋や牧水等と親交あり、「竹青」と号した。

 古き日本の姿を顧りみて、それを今日に生かそうとした理想家でもあった。雑誌「月明」の巻頭には“日本に還れ”とあり“月の光りも粗末にしますまい云々”の月明提唱は、戦前戦後を通じ一貫して変らなかった。

 自然を愛し、日本を思い、故郷を思いつづけた一生であり、晩年 川崎市柿生 在に草木寺を建て、紅葉師像(富永朝堂作)を迎えて本尊とし、理想実現に多彩な活動を続け、真の生活文化向上のためにその情熱を注いだ。

 昭和37年秋、要請に答えて草木染展の為に来博、大宰府都府楼趾に往時をしのび幾多の名句を残す。昭和47年6月齢80にして不帰の客となる。小説「草木染」又「草木染百色鑑」「手織抄」「染色譜」等の名著あるは人の知る処。一同忌を迎ふるに及び道徳顕彰のために観世音寺での一詠を刻み、ゆかりの地水月庵の庭に此の碑を建立す。

長塚節の歌碑もあった。


手を当てゝ鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴くそのかそけきを

 明治45年(1912年)、長塚節は夏目漱石の紹介で結核治療のため福岡に来て九大病院に入院。

 大正3年(1914年)10月23日、観世音寺へ行き、住持東場修繕主任に面会。

   彼の蒼然たる古鐘をあふぐ、ことしはまだは
   じめてなり

手を當てゝ鐘はたふとき冷たさに爪叩き聽く其のかそけきを

   住持は知れる人なり、かりのすまひにひとし
   き庫裏なれども猶ほ且かの縁のひろきを憾む

朱欒植ゑて庭暖き冬の日の障子に足らずいまは傾きぬ

「鍼の如く 五」

 大正4年(1915年)2月8日、長塚節は36歳で亡くなる。

清原拐童の句碑


露のみち観世音寺の鐘聞こゆ

 観世音寺には沙弥満誓「しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」(『万葉集』巻3)の歌碑もあったようだが、気付かなかった。

今年の旅日記 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください