このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

大己貴神社〜芭蕉の句碑〜
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筑前町弥永の県道594号女男石野町線沿いに大己貴神社がある。

大己貴神社

  式内社 で『延喜式神名帳』に「於保奈牟智神社」と記載されている。『日本書記』によると「仲哀天皇九年秋九月庚午朔己卯、神功皇后諸国に令して、船舶を集め、兵甲(つわもの)を練らる。時に軍卒(いくさびと)つとひかたし。皇后の曰、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛を奉り玉ひしかは、軍衆(いくさびと)自聚(あつま)る」と神功皇后とこの神社との説話が記されている。また、江戸時代の『筑前国続風土記』の中に「九月二十三日祭禮あり。此日神輿御神幸あり。御旅所は村の西十町許にさやのもとと云う所あり。(中略)」然れ共夜須郡東部の総社なれは、其敷地広く、産子殊に多くして、人の尊敬浅からず。」現在、10月23日の秋季例祭の記載がある。

 同じく江戸時代の『太宰府管内志』の中の「筑前神社志に皇后(神功皇后)より後に嵯峨天皇弘仁二年勅願有て御建立あり其後六百六十一年を経て後の土御門院文明三年勅願とし て御建立あり其間数度造替ありといへども詳(つまびらか)ならず伝われる縁起記録類は天正年中兵火にかかりて尽く焼失す天正十五年より九十六年の間かり殿に居ましける寛文十二年石鳥居建立祭禮信幸の儀式同十三年に再興す本社貞享四年改造す拝殿は元禄五年建立同六年社領少黒田甲斐守寄附し給へり。神職松木氏先祖より寛永二年まで六十二代相続せり」とある。

 また、『筑前国続風土記附録』に「此村及び甘木・隈江・楢原。甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛木・馬田・高田・野町・依井・大塚すへて十四村の産神にして、夜須郡の惣社也。」とある。

筑前町

大己貴神社の参道入口に 芭蕉の句碑 があった。


川上とこの川下や月の友

 この句は、芭蕉が江戸深川の 五本松 で詠んだものですが、弥永の大己貴神社の境内にこの句碑があります。

 願主は弥永の柳絮庵五滴といい 文化5年(1805年)に建てられました。

 世話人は、弥永の蘭稲、扇路、芝風、下淵の淵魚、天民の5人で、柳絮庵五滴とは柳絮庵で5人の弟子(五滴)が育ったという意味でしょうか。

 このころ、当地方にも俳句をたしなむ文化人が集い、芭蕉を俳聖とあがめていたのでしょう。

 芭蕉は、江戸時代の正保元年(1644年)に伊賀上野で生まれ、江戸に下って桃青と号しました。

 芭蕉は人生を旅にたとえ、十七文字に生涯をささげた不世出の俳人です。

筑前町教育委員会

大己貴神社


祭神 大己貴命・天照皇大神・春日大明神

 地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。このお宮は神功皇后の伝承地で、皇后が新羅(大陸)との戦のとき、兵が集まり難(にく)かったので、兵が集まるように社を建てて祈願したとのことです。このときの社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。

 社殿・拝殿は町の重要文化財に指定され、江戸時代末期から明治初頭の建造物で、原形は 八幡造でしょう。2棟の切妻造、平入りの建物が前後に接続した形をしています。しかし、建物の中間に石の間をおき、前面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。拝殿には唐破風の向拝がついています。

筑前町教育委員会

花茗荷が咲いていた。


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