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私の旅日記
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2013年
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法用寺
〜石川啄木の歌碑〜
会津美里町雀林字三番山下に法用寺という寺がある。
仁王門
金剛力士立像は国重要文化財指定。
蛇の御年始
毎年1月7日に行われる行事で、百年以上も前から続けられている。この日は朝から小学校の児童が仁王門に集まり、入り口に掲げてある藁の蛇をおろし、これを担いで村中の家々を「ウォー」という鬨の声をあげ、「蛇が御年始に来ました」と告げて廻り、金を供えさせる。子供が村中を廻っている間に大人が集まり、あらかじめ貰い集めた藁で新たに蛇体をつくり仁王門に掲げる。村中を廻ってきた古い蛇体は仁王門のそばで燃やす。蛇の御年始が終わると、村の人々は新しい藁の蛇に詣でる。
この行事は全国でも数少ない行事で、昔、用水に不足していた雀林では、この門の西山麓に五龍王(水の神)を祀った龍藏権現(現在の意加美神社)があったので、この龍になぞらえて蛇をつくり、門に飾って用水の豊かさを祈願し、これをお参りするようになった。灌漑水の不足に苦労した水のない歴史を表徴している珍しい正月行事である。永く保存したい。
会津美里町教育委員会
法用寺
天台宗
の寺である。
法用寺観音堂
露盤に飾られた菊花紋にある刻銘文や当寺所蔵の明和3年(1766年)10月の「雀林村法用寺観音堂建立ニ付御役所領ヶ金返与願」の記載等から判断すると、隣接する三重塔より少し早い明和5年建立と推定される。屋根は宝形造り、頂上には箱棟の上に宝珠を載せている。現状は前通り外陣の柱間装置や銅板葺に改造が行われているが、全体的にはほぼ原形が維持されている。会津三十三観音霊場札所のなかでも最大級の建造物であり、方5間(平面積約151㎡)の規模をもち、近世の観音堂では県内最大である。本寺は、近世になり衰退したものの、この堂は法用寺文化を残す貴重な遺構といえる。なお、堂内には、国指定重要文化財の厨子や金剛力士立像など多くの文化財が納められている。
会津美里町教育委員会
三重塔
法用寺三重塔
会津地方に現存している唯一の塔遺構で、禅宗様の三ツ斗・三手先斗キョウ
(※「キョウ」=「木」+「共」)
、二重の繁タルキ
(※「タルキ」=「木」+「垂」)
、三層を扇タルキとし、また各組ごとに尾タルキをおき、斗キョウの間にはそれぞれ間斗二個を詰めて配するなど、応用部分も多く、禅宗様の末期的手法によったものである。
建立年代を示す棟札・墨書銘などは見当たらないが、第二層には、明和5年(1768年)に飛騨高山の二右衛門と越国仙七の描いた設計図板がある。
藩政時代に寺社奉行に提出した調書の写しといわれる天台宗「寺縁起」(会津若松市常光寺蔵)、および『新編会津風土記』などの記載によると、安永元年の起工で、同9年(1780年)の竣工とあり、寺の創立以来再々建にあたるといわれる。
なお初層には、内陣に後補の祭壇を組み、釈迦三尊を祀ってある。
会津美里町教育委員会
三重塔の後ろに石川啄木の歌碑があった。
敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに
明治40年(1907年)秋、「小樽日報」の創刊に参画した29歳の事務長小林(のち中野)寅吉—会津高田町(現、会津美里町)雀林出身—と22歳の記者
石川啄木
との間に社の内紛から来る対立があり、退社した啄木が翌年1月19日、「釧路新聞」の記者として単身赴任する。雪の吹き入る
停車場
に妻子が送る。寅吉も送る。別離の悲しみに憎悪の消えた“わかれ”の一瞬を巧みにとらえて詠んだ歌。
のちに啄木は文学へ、寅吉は政治の世界へとすすんでいくことになる。
3、4句の実感を大切にし、2人を記念する歌として選び、啄木の自筆集字拡大による碑とした。
撰文 三留昭男
昭和60年(1985年)10月27日
啄木生誕100年の日に
会津啄木会
右にもう一つ啄木の歌碑があった。
あらそいて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく
思う日も来ぬ
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