このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
石川啄木ゆかりの地
三角市場
小樽駅を出ると北側に三角市場がある。
三角市場に上る階段脇に石川啄木の歌碑があった。
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
『一握の砂』
収録の歌である。
平成17年(2005年)10月23日、建立。
小樽市内3番目の啄木歌碑である。
明治37年(1904年)9月から10月にかけて、啄木は小樽を訪れている。啄木の姉トラの夫山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長で、官舎は現在の三角市場付近にあったそうだ。
明治40年(1907年)9月、石川啄木一家は小樽日報社に赴任するため小樽にやって来た。小樽日報では同僚に
野口雨情
がいた。
啄木は無断欠勤し、新聞社の事務長
中野寅吉
に殴られたという。
同年12月、啄木は小樽日報社を退社。翌明治41年1月19日、小樽駅を発ち
釧路
へ向かう。
十二日夕刻の汽車にて帰り、社に立ち寄る。小林寅吉と論争し、腕力をふるわる。退社を決し、沢田君を訪うて語る。
十三日より出社せず。社長に辞表を送ること前後二通、社中の者こもごもきたりて留むれど応ぜず。
十五日、小国露堂君札幌よりきたり。滞樽一週間。二十日にいたり、社長より手紙あり、辞意を容れらる。
二十一日の新聞には退社の広告を出し、二十二日の新聞は沢田君の予に別るるの辞を載せたり。
一月十九日
朝起きて顔を洗ってると、頼んでおいた車夫が橇を曳いてきた。ソコソコに飯を食って、停車場へ橇を走らした。妻は京子を負うて送りにきたが、白石氏が遅れて来たので、午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰って行った。予は何となく小樽を去りたくないような心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。
『啄木日記』
19日岩見沢、20日
を経て、21日
釧路
に着く。
明治41年(1908年)4月13日、函館発。14日、小樽着。野口雨情君と逢う。4月19日、一家4人で小樽を発つ。20日、函館に着く。
大正3年(1914年)、
高浜虚子
は函館から寝台車で小樽に着いた。
もう三十分で小樽です、とボーイに起こされる。時に五時三十分。曇つた窓を拭うて外面を見ると背の低い落葉松が禿山の一部分に並んでゐる。葡萄の葉の赤く紅葉したのが古ぼけてゐる。百姓家の板屋根に朝霜が白い。
中央小樽に下車すると年尾の姿が見える。外に數氏の出迎を受ける。越中屋といふ宿屋にぞろぞろと歩いて行く。
「小樽まで」
大正8年(1919年)、
高浜虚子
は函館から寝台車で小樽に着いた。
もう三十分で小樽です、とボーイに起こされる。時に五時三十分。曇つた窓を拭うて外面を見ると背の低い落葉松が禿山の一部分に並んでゐる。葡萄の葉の赤く紅葉したのが古ぼけてゐる。百姓家の板屋根に朝霜が白い。
中央小樽に下車すると年尾の姿が見える。外に數氏の出迎を受ける。越中屋といふ宿屋にぞろぞろと歩いて行く。
「小樽まで」
大正9年(1920年)1月22日、小樽商大生だった高浜年尾が流感で小樽病院に入院したという電報を受ける。23日、高浜虚子は夜汽車で東京を発つ。25日の朝、中央小樽に着く。
二十五日の朝中央小樽の驛に降りると年尾の學友、俳友の諸君が出迎へてくれてゐた。病気は流感でなくて丹毒だと言つた。
「雪」
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