このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2013年
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文殊院清龍寺
〜「芭蕉翁袖塚碑」〜
会津美里町文珠西甲に文殊院清龍寺という寺がある。
文殊院清龍寺の前に「芭蕉翁袖塚碑」があった。
芭蕉翁袖塚碑
この碑は野面石に「芭蕉翁袖塚」と5文字を陰刻した碑で、台石を含めると1.48mの高さがある。松尾芭蕉が元禄2年(1689年)、奥の細道への旅に出立するとき、右袖は筆のすさびには邪魔になるとしてたち切り、これを弟子の堀伊賀之助に与えた。それを高田村の俳人田中東昌(月歩)がもらいうけ、東昌は更に自分の弟子小林麻蔵に預けた。麻蔵は伊佐須美神社の薄墨桜の下に、この袖を埋めて「芭蕉翁袖塚」の碑を建立した。後世に、碑は智鏡塚の東に移され、更にまた現在の位置に移された。
東昌は幼い頃より神童と呼ばれた。また、東昌は高田組郷頭を勤めたほか、文学者としても有名であった。
東昌の死後一周忌の天保10年(1839年)5月に門人が
『袖塚集』
を編み、この由来を記している。『袖塚集』は現在でも田中文庫に残されている。
会津美里町教育委員会
五輪塔
智鏡塚
この塚は智鏡上人を祀った塚で、1.5メートル、周囲約18メートルの大きさがある。塚の上には大きな五輪塔が建てられている。
智鏡上人は法幢寺の僧といわれ、文亀3年(1503年)に伊佐須美神社が火災にあい、贈爵綸旨を焼失したのを嘆き、天文20年(1551年)京都に赴き、後奈良天皇より再び正一位の綸旨を賜わった人物である。この綸旨により伊佐須美神社は再興したと伝えられている。
天文22年(1553)、智鏡上人は高田村に疫病が流行したとき、穴を掘り棺に入って生き埋めとなった。智鏡上人は墓の中から念仏を唱え、疫病から人々を救おうとした。21日間は地中より鐘を鳴らしながら唱える念仏が聞こえたが、その音もついに絶え、捨身往生を遂げたという。村人は塚に五輪塔を建て、供養したと伝えられている。
会津美里町教育委員会
清龍寺文殊堂
日本三大文殊菩薩の1つといわれる。
天台宗
の寺である。
天海大僧正と文殊院
文殊院には、天海大僧正の両親が文殊菩薩に祈願し子を授かったという伝承が残されている。
元禄11年(1698年)、文殊院は「慈眼ノ誕生ヲ祈リシ霊験ノ仏ナリ」という噂を伝え聞いた東叡山
寛永寺
の大明院法親王から若松の延寿寺を通して、寛永寺に文殊菩薩を遷座することを要請される。遷座の件は、幕府の老中から会津藩にも伝えられ、会津藩家老西郷頼母等の指揮のもとに行われる。その際の様子が会津藩の『家世実紀』や『高田徴古録』に残されていて、文殊菩薩の梱包の状況や移動日程、警備・警護の注意などが記されている。
遷座の後、文殊院はもとの文殊菩薩の代わりに法親王が開眼した文殊菩薩を賜ったが、天明3年(1783年)の大火で焼けたため、再び定朝作と伝えられる文殊菩薩及び金襴の旛
(はた)
、若干の金を賜っている。後に、明治の大火で文殊堂は焼けてしまったが、再建された文殊院には寛永寺から贈られた木造の台で漆塗りの常夜灯1対が残されている。
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