このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2010年
〜
宗祇戻し
〜芭蕉の句碑〜
白河市旭町に道標がある。
道標
右 たなくら
左 いしかわ
道標の後ろに宗祇戻しの碑がある。
文明13年(1481年)、白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で1日1万句の連歌興行を催した。
これを伝えきいた都で名高い連歌の宗匠
宗祇法師
が、はるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。
その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。
これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。
元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月8日)、曽良は「宗祇もどし」の話を書いている。
○宗祇もどし橋、白河ノ町ノ右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわニ成程かすか成橋也。 むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有
レ
之。いづれも三日付ル事不
レ
成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被
レ
聞
レ
之て、其所ヘ被
レ
趣時、四十斗ノ女出向、宗祇に「いか成事ニテ、いづ方ヘ」と問。右の由尓々
(しかじか)
、女「それは先に付侍りし」と答てうせぬ。
月日の下に独りこそすめ
付句
かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけり云伝。
『曽良随行日記』
宝暦3年(1753年)12月、
『宗祇戻』
(夕顔菴風光選)刊。「宗祇戻し」の伝説を書名としている。
宝暦5年(1755年)5月、南嶺庵梅至は。「宗祇戻し」で句を詠んでいる。
宗祇戻しの坂
今も其宗祇戻しや蟾の声
『奥羽の日記』
宗祇戻しの碑の右に芭蕉の句碑があった。
早苗にも我色黒き日数哉
出典は
『俳諧書留』
。
これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、須賀川から白河の俳人何云
(かうん)
に当てた手紙のなかにあります。
この句碑は天保14年(1843年)芭蕉の百五十回忌に、乙丸ら白河の俳人によって建立されました。
私の旅日記
〜
2010年
〜に戻る。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください