このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2012年

美濃太田駅〜坪内逍遥博士之像〜

JR東海の高山本線美濃太田駅下車。


南口に「坪内逍遥博士之像」があった。


逍遥生誕130年、美濃加茂ライオンズクラブ結成30周年記念として建立。

坪内逍遥略歴

 逍遥こと、雄蔵(幼名)は安政6年(1859年)6月22日美濃国加茂郡太田村(現岐阜県美濃加茂市太田本町太田小学校西北端)の尾張藩代官屋敷で父坪内平右衛門(後に平之進と改む)と母ミチの子として生まれた。折しも幕末維新の風雲急を告げ、中山道は人馬の往来激しく、陣内での父母の養育、手習を受け成長した。明治9年(1876年)県選抜生として上京、開成学校(現東京大学)に入学、16年同校文学部本科を卒業するや東京専門学校(早大前身)の講師(後に教授)講師となり、教鞭のかたわら『当世書生気質』『小説神髄』を著して明治新文壇の先達となった。又逍遥は文人にとどまらず、文芸運動を指導し、演劇、新国民劇の創造改善にも心血をそそぎ、明治32年には文学博士の学位を受け、小学校用国語読本全8巻などを刊行。かくして明治、大正、昭和の三代にわたる我が国文化の偉大な教導者として仰がれた。晩年の逍遥は熱海に双柿舎を開き住み、宿願の『シェイクスピヤ全集』の翻訳を完成、昭和10年(1935年)2月28日、77才の天寿を全うした。早稲田大学葬がおこなわれ、墓は熱海の海蔵寺にある。資産はすべて寄付され、数々の偉業は早稲田大学記念博物館に納められた。逍遥が最後にここ生誕の地を訪れたのは大正8年(1919年)の晩春。夫人セイを伴ない、木曽川の清流にたたずみ、虚空蔵の大椋をなでて懐旧の情にむせんだ郷土が生んだ偉大な人物である。

祐泉寺 に坪内逍遥の歌碑がある。

長良川鉄道


関市へ。

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