このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2009年
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碓氷峠越え
〜蔓竜胆〜
刎石
からは杉木立の間の比較的なだらかな尾根道が続く。
碓氷坂の関所跡
昌泰2年(899年)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。
座頭ころがし(釜場)
急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所である。
享和2年(1802年)4月3日、太田南畝は碓氷峠を下り刎石へ。
こゝを座頭ころばしといふもむべなり。目しゐのものはおちいりぬべし。ほそき道を左にとりて、かんば坂をすぎゆけば、左右ともに深き谷にして、たゞ一筋のほそき道あり。堀きりと名づく。
『壬戌紀行』
蝮草の実
廃車があった。
どのようにして捨てられたのだろう。
栗が原
明治天皇御巡幸道路と中山道の分かれる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番のはじまりである。
入道くぼ
山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。
鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。
鳥兜が咲いていた。
鳥兜はキンポウゲ科の花。
山中茶屋
山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(1648〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2か所あった。
山中坂
山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれて、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。
一つ家跡
ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。
万葉集の歌が書いてあった。
子持山
万葉集第十四巻東歌中 詠人不知
兒持山若かへるでのもみづまで
寝もと吾
(わ)
は思
(も)
ふ汝
(な)
はあどか思ふ
太田南畝は碓氷峠を下る。
丸き山あり。子持山といふ。姥がふところ、ばらむきが平などいふ所をすぐ。このあたりより吾妻のかたをながめやるに、日本武尊のむかし思ひ出らる。春のなごりのかすみわたれる山々のけしき、いふもさらなり。山中坂を上りて立場あり。賑はしき茶屋也。餅うる家あり。山中村といふ。八重桜の花今をさかり也。
『壬戌紀行』
唐松林の間の皇女和宮道を行く。
陣馬が原
太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。ここが古戦場といわれている。
太田南畝は碓氷峠を下る。
むかし豊臣氏小田原を攻給ひし時、大道寺駿河守政繁この坂をほりきりて北国勢をふせぎしが 上杉景勝・前田利家のためにやぶられしとなん。まことにさがしき切所といふべし。
『壬戌紀行』
蔓竜胆が咲いていた。
竜胆が密集して咲いていた。
薙刀香需
(なぎなたこうじゅ)
。
シソ科の薬草である。
熊野神社
へ。
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