このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2004年

竹久夢二伊香保記念館〜竹久夢二文学碑〜

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伊香保温泉 懐石さつき亭」 から竹久夢二伊香保記念館に行く。


竹久夢二の文学碑があった。


山は歩いて来ない。やがて私は帰るだらう。

榛名山に寄す。

1932年9月9日   夢生

文学碑の由来が書いてあった。

由来

  竹久夢二 (1884〜1934)は明治・大正・昭和の3代にわたって活躍した画家である。その仕事は、画家としての領域を越え、童謡、童話、詩歌、創作、評論に及び、また人形を作り、グラフックデザインの分野で多くのものを残した。

 竹久夢二が初めて当地を訪れたのは大正8年(1919年)6月であった。以後、当地をこよなく愛した夢二は、晩年 榛名湖畔 にアトリエを建設した。そこで榛名山産業美術学校建設の構想をもち、その実現の為に情熱を注いだ。

 しかし思いなかばにして此の世を去る。昭和9年(1934年)9月1日、享年51歳であった。

 此の度生誕100年と50回忌を記念して、全国の夢二ファンの人々によって此処に文学碑が建設された。

 碑文は夢二会の長田幹雄先生に選んでいただいた。夢二が昭和7年(1932年)遠く離れたアメリカで、伊香保榛名の事を思いつつ製作した油絵「青山河」の裏面に書かれていた詩である。

以下は竹久夢二伊香保記念館のホームページの説明を要約したもの。

「青」はかぎりなきさびしさ、「山」は彦乃、「河」は夢二。

 大正9年(1920年)1月、夢二の永遠の恋人彦乃は病床で夢二の名を呼びながら25歳の短い一生を終えた。夢二は37歳。

 昭和6年(1931年)5月、夢二渡米。望郷の念にかられ夢二は「青山河」を描き、ジャーナリスト坂井氏に送った。坂井氏は第二次大戦中の収容所生活で「青山河」を守り通した。

やがて終戦を迎え、ある日、「青山河」が夢二会に届いた。

 昭和56年(1981年)、伊香保に夢二記念館が開館。「青山河」は半世紀の長い旅を終えて、榛名山に帰ってきた。

竹久夢二伊香保記念館の入館料は1,500円。

旅の途中で、ちょっと立ち寄るには高い。

お土産に膝掛けを買って、出た。

榛名山ロープウエイ へ。

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