このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

与謝蕪村ゆかりの地



秋のくれ仏に化る狸かな
きつね火や五助新田の麦の雨
猿どのの夜寒訪ゆく兎かな

JR水戸線結城駅前に結城市民情報センターがある。


結城市民情報センターの前に与謝蕪村の句碑があった。


秋のくれ仏に化る狸かな
きつね火や五助新田の麦の雨
猿どのの夜寒訪ゆく兎かな

平成16年(2004年)5月、結城市文化協会設立20周年記念事業として建立。

詳しい説明が書いてあった。

蕪村句碑建立の記

 近世俳諧の巨匠であり、わが国文人画の大成者でもある与謝蕪村は享保元年(1716年)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区)に生まれ、20歳ごろ江戸へ下った。元文2年(1737年)野州烏山出身の夜半亭・早野巴人(宋阿)に師事、宰鳥と号して俳諧の道に専念する。

 寛保2年(1742年)師巴人の死に遇い、江戸を離れ砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って来結する。以後宝暦元年(1751年)に上京するまで約10年間、雁宕並びに北寿老仙こと早見晋我、同桃彦、弘経寺等結城を拠点として下館や関宿、宇都宮などの同門仲間の支援を受けながら、関東各地を始め遠く奥羽一円を行脚した。

 この各地遍歴を含め、当市滞在の10年間は、若き蕪村にとって極めて貴重な歳月であった。それは独創的俳詩「北寿老仙をいたむ」( 妙国寺 に碑あり)を生んだ俳諧修行上はもとより、画人として生涯師を持たなかった蕪村にとって、結城の地こそその素地を培うに欠くべからざる土地となったからである。そればかりか後年蕪村がその著『新花摘』で回顧したように、この地からいかに多くの人格形成上の影響を享受していたか、想像に余りあるのである。

 ここに掲出の句は、丈羽の別荘で詠んだ

     秋のくれ仏に化る狸かな

 近在の五助新田を偲んだ

     きつね火や五助新田の麦の雨

 結城滞在最後の年に詠んだ

     猿どのの夜寒訪(とひ)ゆく兎かな

 であるが、このほか 弘経寺 に句碑のある「木葉経」の句、 城跡公園 に碑の建つ「筑波山」の句などが著名である。

 俳聖芭蕉と並び称される俳人蕪村・国宝「十宜図」をはじめ数々の傑作を生んだ画人蕪村は、ここ結城の地が育てたと言っても過言ではない。

 この度、当文化協会設立20周年を迎えるに当たり、蕪村の本市に於ける事蹟をを顕彰するため、ここに記念の句碑を建立した。

結城市文化協会
宇都宮市・成島行雄撰

蕪村のことはよく分からないので、このくらい詳しい説明があると有難い。

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