このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

鞆の浦〜いろは丸事件〜
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 慶応3年(1867年)4月23日午後11時頃、海援隊「坂本龍馬」の「いろは丸」は岡山県六島沖で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突、「いろは丸」は宇治島沖で沈没した。24日午前6時頃、「明光丸」は鞆港に入港。

鞆の浦の 坂本龍馬 ゆかりの地を歩いてみた。


龍馬の宿泊所跡「桝屋」


龍馬の隠れ部屋

今年は龍馬生誕180年!

江戸時代より廻船問屋を営んでいた『桝屋』は、慶応3年(1867年)の“いろは丸事件”の際、坂本龍馬はじめ海援隊が紀州藩との談判交渉をした数日間、滞在した商家です。龍馬は『才谷梅太郎』という偽名で桝屋に宿泊し、屋根裏の隠し部屋に身を潜めました。幕末の雰囲気そのままに現存しているその部屋の一般公開が始まったのは2011年4月。

記念の年にどうぞご覧ください。

談判会場「旧魚屋萬蔵宅」


いろは丸事件談判跡

旧魚屋萬蔵(ウオマン)宅で魚問屋などを営む船宿(問屋)跡。

慶応3年(1867年)のいろは丸事件の後処理で紀州藩と坂本龍馬は決死の談判をした。

福善寺・對潮楼


坂本龍馬談判跡

 いろは丸事件で坂本龍馬が鞆での最終日に談判を行った福善寺客殿「對潮楼」。本堂は、平安時代第六十二代村上天皇創建の勅願寺、客殿は江戸時代の創建。朝鮮通信使が絶賛し「日東第一形勝」と称した。格式が高い当寺で、最終局面での交渉の場とした。それまでの交渉は変名「才谷梅太郎」としていたが、この對潮楼では海援隊「坂本龍馬」の名札を渡して臨んだ。

国史跡 福善寺 對潮楼

円福寺 の「夾明楼」が紀州藩の宿舎として使用された。

 交渉は決裂、27日、「明光丸」は長崎へ出航。翌日、龍馬側はその後を追い、交渉の場所を長崎に移してようやく決着した。

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