このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


疑なうし保のはなも浦の春

福山市鞆町鞆の高台に円福寺という寺がある。


大可島(たいがしま)城跡

 康永元年(1342年)、四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代に村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。

 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。

南林山円福寺


真言宗 大覚寺派の寺である。

本堂の左手に芭蕉の句碑があった。


疑なうし保のはなも浦の春

碑 陰

南林山瑞麟阿闍梨代

文政十丁亥秋日再營

出典は 『いつを昔』 (其角編)。

元禄2年(1689年)春、芭蕉46歳の句。

 くだけちる波(潮)の花をみるとこの浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな

 安永6年(1777年)に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、 鼎左 の筆です。この句の前文に「二見の図を拝みて」とあり、元禄2年(1689年)伊勢の絵を見てよんだ画賛です。なお、円福寺の夾明楼(きょうめいろう)は頼山陽の叔父頼杏坪(らいきょうへい)が美しい景色に感嘆して命名したものです。

『諸国翁墳記』 に「花 冢 備後鞆津大可嶋ニアリ 五風建之」とある。

文政10年(1827年)、再建。

 慶応3年(1867年)の“ いろは丸事件 ”の際、円福寺の「夾明楼」が紀州藩の宿舎として使用された。

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