このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2019年の旅日記

宇品港〜近藤芳美の歌碑〜
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広島電鉄宇品線広島港から海岸線を歩く。


右に「グランドプリンスホテル広島」が見える。

 明治28年(1895)4月7日、 正岡子規 は近衛師団司令部と共に海城丸に乗り、宇品を発する。

 昭和14年(1939年)10月1日、 種田山頭火 は宇品港から女王丸(関西汽船)で旧高浜港へ。

宇品波止場公園の「パラダイスの塔」が見える。


六管桟橋

 明治22年に築港された宇品港は、日清・日露戦争を契機に、昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として使用されてきました。その中心的役割を果たしてきたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。

 この桟橋は、戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え,広島の歴史を見守ってきた貴重な証言者です。また、築港当時の唯一の施設であり、歴史的、建築的にも高い価値があります。

 戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、護岸としてのその姿を残しています。

 宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるようになってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は、広島の歴史そのものです。

 桟橋の石積みを当時の護岸として保存し一部を展示しています。

広島県広島港湾振興局

海上保安庁の桟橋


宇品線

 宇品線は、広島港が軍用港としてクローズアップされた日清戦争時の明治27年に、山陽本線完成に併せて施設された旧陸軍の軍事輸送専用線で、明治39年3月制定の鉄道国有法により国鉄に移管されたものです。広島—宇品間5.9キロメートルを着工からわずか16日間で完成、さらに、拠点の広島駅には軍用列車の引込線が整備され、終点宇品駅には陸軍運輸部宇品支部が設けられました。

 太平洋戦争が始ると、兵士や兵器を積み込んだ軍用列車が夜昼なく30分おきに入るほど、慌ただしい毎日でした。宇品駅の軍用ホームが560メートルと当時としては日本一の長さを誇っていたことからも、宇品線の果たした役割の大きさをうかがうことができます。

 広島に原爆が投下された昭和20年8月6日には、宇品—南段原間を3往復し、約3,000人の負傷者を宇品凱旋館に収容しました。

 軍用桟橋の役目を終えた戦後は、貿易港として生まれ変わった広島港の動脈として、地域住民の足として利用され、広島市の復興を支えてきました。しかし、道路網の整備が進むにつれて、貨物・旅客数は減少し始め、ついに、昭和47年に旅客列車は廃止され、1日1往復のみの貨物専用線となったのです。

 そして、昭和61年9月30日、宇品線は92年の歴史に終止符を打ち、記念としてここに形を残すことになりました。

広島県広島港湾振興局

平成元年(1989年)、広島港築港100周年を迎える。

パラダイスの塔


=広島港築港100周年記念モニュメント=

パラダイスの塔

 パラダイスの塔は、“広島がすべてを映す光輝く都市になるように”との願いで製作され、「‘ 89海と島の博覧会・ひろしま」のシンボルタワーとして用いられました。

 広島湾が、平和都市広島の表玄関として、人々に愛され親しまれ発展していくシンボルとして、また、広島港築港100周年記念モニュメントとして、広島湾に移設されました。

広島県広島港湾振興局

陸軍桟橋跡記念歌碑


陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ

   「趣意」

 宇品に陸軍運輸部が置かれ、一筋の石組みの突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。

 戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどにより姿を変えたが、今、埠頭の片隅の岸にわずかにかつての面影をとどめる。

 わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。

 一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記

陸軍桟橋跡記念歌碑 建立委員会

平成18年(2006年)6月21日、近藤芳美は93歳で没。



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