このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2008年

五稜郭〜函館戦争〜
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啄木小公園 から五稜郭へ。


五稜郭は 日本100名城 のひとつ。

五稜郭跡


函館戦争と特別史跡五稜郭跡

 江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。日本の新しい時代が始まったのです。

特別史跡 五稜郭跡(五稜郭公園)

 箱館奉行が、蝦夷地(北海道)を統治するために役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭です。5つの突角をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれています。

 蘭学者武田斐三郎の設計で、安政4年(1857年)着工。元治元年(1864年)完成。昭和27年3月、国の特別史跡に指定されました。

榎本武揚

 天保7年〜明治41年(1836年〜1908年)。江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868年)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占拠しました。

土方歳三

 天保6年〜明治2年(1835年〜1869年)。武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となります。明治2年5月11日、箱館の 一本木関門 (現若松町)付近で戦死。

箱館奉行所

 当初、箱館奉行所は函館山山麓にありましたが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させました。

函館市

二の橋


 明治40年(1907年)4月30日、河東碧梧桐は五稜郭を訪れた。

 桝形のように築かれた低い土手の中へはいると、そこに堀がある。堀の上へ橋が二つかかっておる。堀が丁字形をなしておるので、橋も丁字形に架けてある。手前の橋の側に「御用の外入るを禁ず」と筆太に書いた高札が立ててある。向こうの橋を渡った処が内郭の正門であろう。


「クルップ砲」と「ブラッケリー砲」


 昭和6年(1931年)5月22日、 与謝野寛・晶子 夫妻は五稜郭を訪れた。

文久のまつの竝木と濠川と五稜の郭のいしがきのはな

悲しくも王師と見ゆ五稜郭おろしやの船にそなへたれども

安からず思ふすがたに波立ちて五稜の郭をめぐる濠かな

「北海遊草」

五稜郭タワー


箱館奉行所は復元工事中。

巌谷小波の句碑「其跡や其血の色を艸の花」は見られなかった。

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