このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
本行寺
〜啄木碑巡り〜
米町公園
から少し周辺の啄木碑巡りをする。
弥生宮本通の坂を上ると、三叉路の角に啄木の歌碑があった。
よりそひて
深夜の雪の中に立つ
女の右手
(めて)
のあたたかさかな
南大通7丁目に「佐野碑園」がある。
「喜望樓の跡」である。
喜望楼は和洋折衷の建物で釧路第一の料亭だった。
明治41年(1908年)1月21日、石川啄木は
釧路停車場
に降りた。24日、喜望楼で啄木の歓迎会。
一月二十四日
寒いこと話にならぬ。今日からまず三面の帳面をとる。日影君から五円をかりて、硯箱や何やかや買って、六時頃帰宿。社長の招待で編集四人に佐藤国司と町で一、二の料理店○コ喜望楼へ行った。芸者二人、小新に小玉、小新は社長年来の思い者であるという。編集上のこと何かと相談した。
『啄木日記』
「喜望樓の跡」に啄木の歌碑があった。
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓をすするごとくに
平成3年(1991年)11月、建立。
本行寺に向かうと、米町弥生中通に啄木の歌碑があった。
出だしぬけの女の笑ひ
身に沁みき
厨に酒の凍る真夜中
平成3年(1991年)12月、建立。
以上3基は
『一握の砂』
収録の歌である。
弥生町に本行寺がある。
浄土真宗本願寺派
の寺である。
啄木資料室(本堂内)
昭和61年開設。若き
石川啄木
が当寺でカルタ会に興じた因縁にちなみ「歌留多寺」と称し、啄木資料室を設ける。
本行寺山門の右手に啄木の歌碑があった。
一輪の赤き薔薇の花を見て
火の息すなる
唇をこそ思へ
啄木資料室
「本行寺の歌留多会へ衣川と二人で行って見たが、目がチラチラして居て、駄目であった。帰りに小奴に逢った。」
(啄木日記明治41年3月3日)
啄木は、記者月例会や歌留多会が催された本行寺で、小菅まさえ、小奴、梅川操たちと出会った。
啄木の遺品など一つも無い名前だけの『歌留多寺』に、せめて旧本堂の模型を造り、八十年前に遡ってみたい——この願いがかなった。
本物そっくりな模型——その前に立つと、啄木やゆかりの人びとの哀歓の声が聞え、開教百余年の歴代住職・門徒の姿が見えてくる。
平成元年四月十三日 啄木忌
本行寺第五世 菅原弌也誌す
「旧本堂の模型」は撮らなかった。
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