このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
旧島松駅逓所
〜クラーク記念碑〜
北広島市島松に旧島松駅逓所があったので、立ち寄ることにした。
旧島松駅逓所
国史跡 旧島松駅逓所
島松駅逓は北海道各地に設置された駅逓の一つで、明治初期の姿を残す駅舎・施設は、北海道の近代史を織る上で貴重な遺構である。
駅逓は、交通不便の地に駅舎、人馬等を備えて宿泊・人馬継立・逓送等に便をはかるために置かれた施設である。
北海道における駅逓制度は、古く松前藩時代にさかのぼり、明治に入り開拓使に直結された形で駅逓業務が継続された。
島松駅逓は、明治6年(1873年)12月、箱館・札幌間の札幌本道の開通に伴い島松川の右岸に設置されたのに始まり、初代取扱人は勇払場所総支配人の山田文右衛門(明治8年まで)が、2代目は山口安五郎が務めた。
その後は、明治10年(1877年)、中山久蔵が請人となって鶴谷新次郎が駅逓取扱人となったが、明治17年(1884年)8月から中山久蔵が正式に駅逓取扱人となり、以後島松駅逓が廃止されるまで、この駅逓の業務は中山家によって行われた。
現在の木造平屋建ての建物は明治6−13年(1873−1880)に建てられた中山久蔵居宅・客室に同14年造築の行在所が主体をなし、その後小規模の改修が行われた。 史跡内にはハス池、井戸などの附属施設が保存されている。
クラーク記念碑があった。
明治10年4月16日札幌農学校教頭ウィリアム・スミス・クラークが、島松駅逓所(中山久蔵宅)における学生及び職員と決別した地を記念し昭和35年11月クラーク奨学金(発起人代表宮部金吾)により記念碑が建てられた。
クラークは開拓使の招きにより明治9年6月東京のペンハロー・ホイラーの二教師と共に着任し、7月札幌に赴任。同年9月
札幌農学校
教頭となり、翌年4月までの8か月間在任した。
訣別にさいし青年よ大志を懐けの含蓄のある言葉を残したのは現在でも有名であり、
塔央のクラーク彫像の下にはボーイズビーアンビシャスとその言葉が彫られている。(村史要約)
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