このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』


〜東陽寺〜

 国道4号(日光街道)を行き、春日部の『一宮』交差点で県道2号さいたま春日部線に入る。


 県道2号さいたま春日部線は旧日光街道。ここに東陽寺がある。

東陽寺は『奥の細道』の旅、第1日目の宿泊地と伝えられる。

山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」の碑がある。


東陽寺境内に、『曽良随行日記』の一節が刻まれた碑がある。


廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余。

 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。

 『奥の細道』には「早加(草加)と云宿」とあるが、曽良の随行日記によれば、「カスカベ(春日部)」に宿泊したことになる。

 日本橋から春日部まで、およそ35Km。『曽良随行日記』によれば、芭蕉が千住で舟をあがったのが、巳ノ下尅すなわち午前10時過ぎ。芭蕉の足なら、その日のうちに春日部まで歩いたのかもしれない。

 春日部の 小渕山観音院 にも芭蕉が『奥の細道』の旅の第1日目に宿泊したという言い伝えがあるそうだ。

 東陽寺の近くに「 利根川煎餅 」というお店があった。創業明治38年という「手焼きせんべい」の老舗である。

 煎餅は寛永年間(1624年〜1644年)の頃、草加松原で団子の茶店を開いておせんというお婆さんが、立寄った侍の話を聞き、団子を潰してうすく延ばし、よく乾かして色好く焼き上げ、塩味をつけて、お客様に差し上げたのが始まりだそうだ。

芭蕉も煎餅を食べたかもしれない。

 享保元年(1716年)4月3日、 稲津祇空 は庵崎の有無庵を出て奥羽行脚。その日は粕壁に泊まった。

おくりの人々もかへりていと心ほそく、行とも道たとたとしからす、四并の勝事をかゝす。妖艶眼に供し、渓辺水人をてらす、と岑參か句も思ひ出て、

   太平の時に袷そ朝ほらけ

その夜は粕壁 にとまる。


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