このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


 〜沖の井(沖の石)〜

末の松山 から100mほど南に歩くと、沖の井(沖の石)がある。


子供が保母さんに連れられて歩いていた。

沖の井(沖の石)


 写真を撮っていると、子供が「何で写真を撮っているの?」と保母さんに聞いていた。

保母さんは返事に困っているようだった。

 沖の井(沖の石)は古来詩に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は磊磊(るいるい)とした姿をとどめており、古(いにしえ)の情景を伝えています。

「沖の石」は『小倉百人一首』の歌で知られている。

わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき

二条院讃岐『千載和歌集』

小野小町の歌に「沖の井」を詠んだものがある。

おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべのわかれなりけり

『古今和歌集』巻20(墨滅歌)

 「墨滅歌(すみけちうた)」とは『古今和歌集』の歌の中で、古写本に書かれていながら墨で消してあるもの。

小野小町も『小倉百人一首』の歌で知られている。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

『古今和歌集』巻2(春下)

 元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は「沖の石」を訪れた。

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。

『奥の細道』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は 壺の碑 から沖の石を訪れている。

 此所より八幡村へ一里余、細道を分入、八幡村百姓の裏に興の井有。三間四方の岩、廻は池也。処の者は沖の石と云。


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、沖の井に行く。

是より奥の細道。十符の井を尋ねて。沖の井 に行く。三間四方程の岩なり。周は池なり。里人は沖の石といふ。千曳(ちびき)の石も此あたりと雖も。里人は知らず。末の松山は此所より遙に海原に見ゆ。


 元文3年(1738年)4月、田中千梅は沖の井を訪ねている。

此名ところハ沖の井で身をやくよりも悲しきは都嶋へのわかれ也けりと讀る本名澳の井也とかや


 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚し、沖の石を訪れている。

沖ノ石   矢はた村といふ民家の背戸に有

麦の穂の浪は刈れて沖の石
   柳几


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で「沖の石」 を訪れた。

沖の石 江古平左衛門と云百姓の裏に有四方七八間の
池也中に石有景色西湖の山を見るに等

いらいらと凩吹や沖の石


 宝暦5年(1755年)5月11日、南嶺庵梅至は「沖の石」を捜して訪ねている。

舩を上りて 野田の玉川末の松山 を詠め八幡村に尋入て沖の石を捜す是や田家の背戸に有て案内なくハ得る事かたかるへし石老ひて青苔滑に雨旧苔を洗ふ

沖と見しは石の神代や苔の花


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に嘉定庵の社中に沖の石へ案内された。

   沖の石

かほよ花ちどりに見えつ沖の石
   嵐亭

夏藤のたもともぬれつ沖の石
   東明

袂にも沖の石あり汗ぬぐひ
   蝶羅


明治26年(1893年)7月30日、 正岡子規 は素通りしたようだ。

『はて知らずの記』 に「沖の石」の記述はない。

按ずるに、こゝの沖の石は、此歌により、後人附会して付たる名なるべし。讃岐が歌は、たゞよのつね海洋にある所の石を云。此末の松山の石に限るには非ず。

蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』

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