このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜「おくのほそ道の碑」〜
石巻から北上川沿いに国道45号(一関街道)を行くと、津山町柳津の国道沿いに「おくのほそ道の碑」があった。
「おくのほそ道の碑」
明くればまたしらぬ道をさまよひ行。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原なぞよそ目に見て、遙かなる堤を行く。心細き長沼に沿ふて、戸伊麻といふ所に一宿して平泉に到る。
白鳥省吾 撰並書
碑 陰
俳聖芭蕉の奥の細道に随行せる曽良の日記にも、松島、石巻、鹿ノ股、飯野川、矢内津、戸伊麻を經て平泉に赴くとあり、時は元禄2年5月のことなり。茲にわが郷土柳津のゆかりを回顧し此の碑を建つ。
昭和47年5月
元禄2年(1689年)5月11日、芭蕉と曽良は
石巻
を立ち、宿を借りた「四兵へ」「今一人」と柳津まで同道、
登米
へ。
松尾芭蕉ゆかりの地
元禄2年(1689年)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥入った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。
飯野川から3里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる明耕院黒門を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今「奥のほそ道の碑」の建っている付近である。さらに北へと旅をつづけた一行は、戸伊摩(登米町)に一宿し一関へ向かった。
芭蕉らのたどった当時の一関街道は、明治末期から昭和初期にかけて施工された北上川改修事業の際、水没したり河川敷あるいは埋め立てられて跡かたもなく、桃生・本吉郡境の橋本坂と、柳津まで同行した宿四平へ、今一人と別れた町はずれのみが、わずかに往時の面影を残している。
明耕院山門
一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵へ、今一人、気仙へ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻二リ 、鹿ノ股。飯野川(一リ余渡有。三リニ遠し。 此間、山ノアイ、長キ沼有)。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。曇。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。
『曽良随行日記』
嘉永5年(1852年)3月16日、吉田松陰は
登米
から北上川沿いに柳津に至へ。
十六日 翳。驛を發す。舟にて北上川を濟り、川に沿ひて下り、柳津に至る、布施某の采地なり、祿千七百石。
『東北遊日記』
明治39年(1906年)11月23日、河東碧梧桐は柳津を経て、
登米
の町に入った。
柳津に着いて、着物を一枚とズボン下を着重ねた。時計は三時半であるのにもう日が見えぬ。四時には薄暗くなる。何と云う日の短かい事か。再び立木も何もない北上の堤に出ると、背後に七日頃の月が冴え冴えと懸かる。日根牛から渡しを渡って、大方の店も戸を卸した寒い登米の町にはいった。
師竹はその瀟洒たる書斎に炭火を山のように盛って予を迎えた。(陸前登米にて)
榾
(ほた)
ぼこり掃て胡坐
(あぐら)
を勧めけり
師 竹
炉に寄りて早や石索を開き鳧
碧梧桐
『三千里』
2005年4月1日、津山町は登米郡各町と合併し、登米市となった。
『奥の細道』
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