このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜日和山〜
志賀直哉生家跡
から石巻市役所脇の坂を上り、日和山公園へ。
奥の細道 日和山
元禄2年(1689年)5月10日(新暦6月26日)、石巻を訪れ源太左衛門のはからいで新田町の「四兵へ」なる人に宿を借りる。雨も止み日和山に登った。
日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不
レ
残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋
(としま)
・尾駮
(おぶち)
ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
『曽良随行日記』
「新田町四兵へ」
宅は千石町(旧新田町)の現「石巻グランドホテル」の地にあったそうだ。
『奥の細道』では12日である。
十二日、平泉と心ざし、あねはの松・
緒だえの橋
など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。
「こがね花咲」は大伴家持の歌。
天皇
(すめろき)
の御代栄むと東
(あづま)
なる陸奥山に金
(くがね)
花咲く
『万葉集』(巻第十八)
日和山から「金花山」は見えない。
奥に春を迎へし歳
はつ空や松に輝く金華山
『瓢箪集』
日和山公園に芭蕉と曽良の像があった。
昭和63年6月26日、おくのほそ道三百年記念に建立。
芭蕉と曽良の像を拡大
意外と小さな像だった。
芭蕉は日和山を下りて、「住吉ノ社」に参詣、
「袖ノ渡リ」
を見ている。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は石巻を訪れ、句を詠んでいる。
行々て石の巻、仙台領也。諸国の廻船を請て大湊、人家富たり。石の巻といへる事、川の州に立石有、行水巴に成て是を巻く。昔より今に替らず、されば石の巻とはいひ
(ふ)
める。所は辺土ながら詩歌・連俳の達人籠れり。
○茂る藤やいかさま深き石の巻
[無都遅登理 五]
延享3年(1746年)4月1日、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅の途中、石巻で衣更え。
石の巻 にて四朔にあふ。
人並に旅馴衣更てけり
『瓢箪集』
明和6年(1769年)4月、蝶羅は石巻を訪れ句を詠んでいる。
石の巻 といふ湊にて
舟板にかたつぶりさへ石の巻
蝶羅
『松のわらひ』
明治39年(1906年)11月16日、河東碧梧桐は
松島
から歩いて石巻を訪れている。
昼前松島を発して、徒歩七里余。日暮れて石の巻に着く。
登米
(とよま)
の桜塊子我を迎え、東京の鉄露仙台から我を追うて来た。
『三千里』
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、日和山を訪れている。
日和山は北上川の岸に長く延びて立つ丘陵、上には石の巻神社愛宕社、松古りて静かなる眺め、
『奥のほそみち画冊』
日和山公園に
鹿島御児神社
がある。
『奥の細道』
〜東北〜
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