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私の旅日記

布引の滝〜歌碑巡り〜
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山陽新幹線新神戸駅から布引の滝へ。

途中に「布引三十六歌碑」の歌碑がある。

藤原定家


布引の滝のしらいとなつくれは絶えすそ人の山ちたつぬる

 藤原定家(康保2(1162)〜仁治2(1241))、俊成の子、新古時代を代表する歌人であり余情豊かな格調のたかい歌を詠んだ。新古今集・新勅撰集の撰者であり、小倉百人一首も彼の撰に基づいている。

 この歌は後鳥羽院が関東調伏のために京都白川辺に建てられた寺の最勝四天王院の障子を飾った歌である。最勝四天王院障子和歌という。全国46の和歌を人々に詠ませられたが、その時定家が詠進した布引の滝の歌である。

 歌意は平明である。

権中納言定家

こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

雌滝


布引の滝

 この布引の滝は、 那智の滝華厳の滝 と並んで、我が国の三大神滝といわれています。それだけに昔から貴族、歌人などがよく訪れ、詩などを数多く謡(よ)んでいます。

 布引の滝は4つの滝(上流から雄滝・雌滝・夫婦滝・鼓ヶ滝)から成ります。

 この滝は雌滝(めんたき)で高さ19メートル。

 しなやかで上品な滝です。

 約200m上流には高さ43メートルの雄滝(おんたき)があり雄大な姿を呈しています。

神戸市建設局中部事業所

藤原良経


山人の衣なるらし白妙の月に晒せる布引のたき

 藤原良経(嘉応元(1169)〜元久3(1206))平安末鎌倉期歌人。父は関白藤原兼実で、良経もまた太政大臣になった。歌人としても重要な存在で、歌壇活動を活発にした。後鳥羽院の信任厚く、和歌所の寄人筆頭となり、新古今撰進に大いに貢献した。

 この歌は続古今集にもあるが、彼の歌集「秋篠月清集」によれば、建仁元年(1201)後鳥羽院などと共に詠んだ「院句題五十首」の作で月照清水という題である。月光を浴びて滝水が真白に晒される風情で、人間界のものでなく、まさに山人即ち仙人の衣であるようだとの趣向である。

後京極摂政前太政大臣

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

藤原俊成


いかなれや雲間も見えぬ五月雨にさらし添らむ布引の滝

 藤原俊成(永久二(1114)〜元久元(1204))官職は皇太后宮大夫となったが出家して釈阿と号した。91歳の長寿を保ったが千載集撰進以後は、鎌倉期にかけて歌壇の長老として後進を指導した。幽玄美を理想としたが、それがやがて余情余韻ゆたかな新古今歌風を生み出す母胎となった。

 この歌は治承2年(1178)5月右大臣家百首に「五月雨」の題で詠まれたものである。なお、この歌碑の文字は明治期、禅宗の老師であった南天棒禅師の筆になるものである。

皇太后宮大夫俊成

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

寂蓮法師


岩はしるおとは氷にとさされて松風おつる布引のたき

 寂蓮(生年不詳〜建仁2(1202))本名は藤原定長で俊成の養子となったが出家して寂蓮と号した。諸国に旅すると共に諸歌会に出詠するなど歌壇で活躍した。新古今集の撰者にも加わったが、その成立を見ずして没した。

 この歌は玄玉集によれば「百首歌に氷閉滝水といふ心を」という題の歌となっている。氷にとざされた滝水に松風を配してたくみに表現している。玄玉集は建久2年(1191))頃に成った私撰歌集である。

寂蓮法師

むらさめの露のもまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ

紀貫之


松の音琴に調ふる山風は滝の糸をやすけて弾くらむ

 紀貫之(生年未詳〜天慶8(945))、平安朝歌人。官吏としては木工権守が最後であってが、歌人としては最初の勅撰集、古今集撰進の第一人者であり、平安朝和歌の基礎を築くと共に、古今集序や土佐日記によって仮名文字の道を開いた。数多い屏風歌を詠んだのも特徴である。

 この歌も屏風歌で、延喜17年(917)敦慶親王(宇多皇子)家の屏風の(松山の)滝を画いた大和絵の画賛の歌である。松風が琴の音のようにひびいてくる、滝水の糸を張っての琴であろうよ、と松籟と滝音とが調和している風情を思いやって詠んでいるのである。

紀貫之

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

藤原家隆


幾世とも知られぬものは白雲の上より落つる布引の滝

 藤原家隆(保元3(1158)〜嘉禎3(1237))、平安末鎌倉期歌人中納言光隆の子で宮内卿であったが、歌壇に活躍、新古今集撰者となり、藤原定家と並び称せられる新古今時代の代表歌人である。多作家で詠歌6万首あったと伝えられる。後鳥羽院を慕い、院隠岐配流後も忠誠をつくしたのは有名である。この歌は新後撰集にあるが、千五百番歌合における勝歌で判者慈円は、

   いとどしく音さへ高く聞ゆなり雲にさらせる布引の滝

との判の歌でもって讃えている。布引滝の壮大性と永続性がみられる。

従二位家隆

風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける

在原行平


我世をは今日か明日かと待つ甲斐の涙の滝といつれ高けむ

 在原行平(弘仁9(818)〜寛平5(893))、平安朝歌人。父は芦屋に塚のある阿保親王(平城皇子)で業平の兄である。因幡守や民部卿であったが須磨に隠棲の身となり、松風村雨との伝説は有名で、謡曲「松風」などの題材となっている。

 この歌は新古今集にもあるが、元は伊勢物語で、業平一行と布引見物に来た時の歌である。自分の失意を表した歌で「世にときめくのを今日明日と待つ甲斐もなく不幸なわが身こぼれ落ちるわが涙の滝とこの滝とどちらが高いか、私の涙の方が・・・」との気持ちがにじみ出ている。涙のなに甲斐の無がひびいている。

中納言行平

たちわかれいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰りこむ

在原業平


ぬきみたる人こそあるらし白たまのまなくもちるかそての狭きに

 在原業平(天長2(825)〜元慶4(880))、平城天皇皇子の阿保親王の第5子で在五中将とも呼ばれる。六歌仙時代の代表歌人であり情操ゆたかな歌を詠んだ。業平の歌を物語化したものが漸次増益して現在の伊勢物語になったとされている。

 この歌も伊勢物語にあるもので、業平が父の領地芦屋の里にいた時、友人たちと布引の滝見物に来た時詠んだものである。滝の水玉がとび散るのを、緒で貫いた白玉をばらばらにして散らしたように見たてたもの。袖は白玉をうけとめる自分の衣の袖である。

在原業平朝臣

ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは

雄滝


日本の滝100選 No.61である。


 寛永10年(1633年)10月11日、 西山宗因 は熊本から上京する途中の舟で布引の滝を歌に詠んでいる。

 十一日、むこの山、生田の森を見て過る。布引の滝は外山にかくれて、こなたよりは見えず。ひとゝせ、おもふどちかいつらねて見にまかりしことを思て、

   打つれていくたの川のそのかみをおもひぞながす布引の滝

「肥後道記」

 文化2年(1805年)10月30日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で布引の滝を見に行った。

これより布引の瀧見みと思へば、輿も從者も西ノ宮の方にゆかしめ、北川氏とゝもに生田川にそひゆけば、風はげし。山路をかちよりのぼりゆけば人家あり。樋かけたるは瀧の流の水をひきて酒つくるなるべし。北川氏案内して、まづ女瀧といふを見る。又右の山路にわけのぼりて、四阿あり。これ瀧見る所なり。名におふ布引の瀧は高さ數十丈ありて、五段ほどに流れ落る也是男瀧なりそれより上にも二段ばかり流れ落るやうにみゆ。中程の水岩にあたりて、横ざまにほとばしるさま志ら玉のまなくもちるかとうたがふべし。


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