このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
金沢城公園
〜玉泉院丸庭園〜
いしかわ四高記念公園
から金沢城公園 (HP)へ。
玉泉院丸庭園
2代藩主
前田利長
の正妻玉泉院がこの場所に屋敷を構えたことから、玉泉院丸と呼ばれるようになりました。3代藩主前田利常が、寛永11年(1634年)に京都から庭師を招いて庭園を造営したことに始まり、5代綱紀
(つなのり)
、13代斉泰
(なりやす)
の時代に改修された記録が残されています。
庭園は、明治期に廃絶されていましたが、平成20年から24年までの5年間の発掘調査や、江戸時代末期の詳細な絵図等をもとに、確認された遺構の上に約2mの盛土をして庭園を再現しています。
大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結ぶ、典型的な池泉回遊式庭園です。
石垣を周囲の構成要素として取り入れ、また、発掘調査で確認された池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が約22mもある、立体感に富む庭園であることが大きな特徴です。
整備工事は平成25年5月に着工、平成27年3月に完成しました。
色紙短冊積石垣
色紙(方形)や短冊(縦長方形)状の石やV字形の石樋が組み込まれた、金沢城内で最も意匠的な石垣です。石垣の下部を約2m埋め戻したため、現在見ることはできませんが、発掘調査では滝壺の石組みが発見され、V字形の石樋から落水する落差9mに及ぶ石垣の滝だったことが判明しています。
二の丸広場
二ノ丸
〜金沢城の中枢〜
初期の金沢城は本丸を中心とした城造りがりが行われていたが、寛永8年(1631年)の大火を機に中心は二ノ丸に移った。敷地を拡張し大規模な御殿が作られ、以後、城主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。
約2ヘクタールを超える敷地に建てられた二ノ丸御殿は、藩主の交代による改修や火災による焼失など幾度となく姿を変えながらも幕末・維新期まで御殿としての機能を持ち続けていた。その後、陸軍の兵舎として利用されたが、明治14年(1881年)の失火により惜しくも全焼した。
現在金沢城内に二ノ丸の名残は見られないが、御殿正面玄関にあった唐門は場外へ移築され、現在は
尾山神社
の東神門(国登録有形文化財建造物)となっている。
金沢城公園内には旧陸軍第六旅団司令部庁舎がある。
極楽橋
二の丸と本丸附段の間の空堀に架かる極楽橋の名前は、江戸時代から使われており、金沢御堂に由来すると伝えられる。
空堀
三十間長屋
国指定重要文化財
金沢城三十間長屋
金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋と呼び、建物の長さをとり三十間長屋・五十間長屋などと名付けられた。他の城郭においては多聞櫓と呼ばれる。
本丸附段の三十間長屋は、江戸時代初期の寛永期(1624−1644)には既に創建されており、当時は北端に櫓が置かれていた。その後、宝暦9年(1759年)の大火で焼失し長らく石垣の土台だけが残る状態となっていたが、幕末の安政5年(1858年)に長屋部分が再建され現在に至る。石川門や土蔵(鶴丸倉庫)と共に江戸時代から存続する貴重な建物として重要文化財に指定されている。
現在の建物は幅3間(約5.3m)長さは26.5間(約48.2m)、石垣上の高さ約8.9mで、漆喰壁の腰には海鼠瓦が貼り付けられて。入口が設けられている東面は建物の裏側で、唐破風や千鳥破風の出しが設けられた西面が本来の表側であり、城下に睨みを利かせていた。
屋根は南側が入母屋造、北面は切妻造となっているが、これは北端の続櫓を再建する時に接続しやすいようにしたためと考えられる。安政の再建当初は板葺のままであったが、後に瓦葺きに変えられ、現在の鉛瓦葺きになったのは昭和44年(1969年)の保存修理工事による。
土台石垣は石の接合面を直線的に加工し隙間なく積む「切石積み」で積まれ、石表面の縁取りだけをきれいにそろえて内側に瘤を残す「金場取り残し積み」という技法が用いられた意匠性の高いものである。
鉄門
創建は明らかでないが、寛永の大火(1631)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いたといわれている。渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。
戌亥櫓跡
本丸の北西隅、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」という出窓がついている二層の櫓だった。宝暦火災(1759)の後、再建されなかった。
五十間長屋
金沢城の歴史
天文15年(1546年)金沢御堂がこの地に置かれ、加賀の一向一揆を指導したが、天正8年(1580年)に佐久間盛政が加賀北部を支配し、金沢城の造営をはじめました。
その後、天正11年(1583年)
前田利家
が金沢城主となり、本格的な近世城郭へと姿を整えていきました。天正14年頃の天守創建、文禄元年(1592年)の高石垣建設、元和7年(1621年)の本丸拡張などを経て、寛永の大火後(1631年以後)現在の金沢城に近い姿になりました。
左の絵図は江戸初期の姿を描くもので、二の丸が狭く、三の丸や新丸などに家臣の屋敷があるなど、寛永大火後の絵図と異なるところが多く見られます。
現在天守はありませんが、慶長7年(1602年)に落雷によって焼失するまで、本丸に聳えていました。焼失後、天守の代わりに三階櫓が建てられ、宝暦9年(1759年)の火災まで城のシンボルとなっていました。二の丸には寛永の大火後、二の丸御殿が造られ、藩主の御殿、藩庁として藩政の中心にありました。三の丸には河北門・石川門・時鐘・鉄砲所、新丸には作事所・越後屋敷・会所・割場などの施設がありました。
明治4年(1871年)廃藩置県で明治政府の所轄となって旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1949年)からは金沢大学のキャンパスになりました。その後、大学の移転により、平成8年(1996年)から石川県が金沢城公園として整備を実施しています。
金沢城は
日本100名城
No.35である。
本丸
古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583年)の賤ケ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年(1586年)頃に天守を設けたといわれる。
天守は慶長7年(1602年)に焼失し、代わって三層櫓が建てられた。寛永の大火(1631年)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。
かつては金沢大学理学部付属植物園であった。
辰巳櫓跡
本丸の東南角、辰巳の方向に当たることから「辰巳櫓」と呼ばれていた。長屋を備えた立派な櫓が建っていだが、宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。櫓を支えた石垣は明治の改修により改変され、ほとんど残っていない。
丑寅櫓跡
本丸の東北角、丑寅の方角に当たることから「丑寅櫓」と呼ばれていた。櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(1592年)の築造と推定され、金沢城内最古の石垣である。宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。
鶴丸倉庫(金沢城土蔵)
嘉永元年(1848年)に建てられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の1つ。全国の城郭内土蔵の中でも最大であり、腰の石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、平成20年(2008年)に国の重要文化財に指定された。
明治以降、軍隊の被服倉庫などとして利用・修理されているが、基本構造は創建時のままである。
橋爪門
石川門
三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す櫓でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。
国指定重要文化財である。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください