このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

白髭神社〜芭蕉の句碑〜
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北上市鬼柳町打越に小高い丘がある。


丘の上に白髭神社がある。


参道の鳥居


東北本線の線路に面して立っていた。

2つ目の鳥居を過ぎると、左手に芭蕉の句碑があった。


芭蕉の句碑


枯枝に烏のとまりけり秋の暮

出典は 『阿羅野』 (巻之四)。

延宝8年(1680年)、芭蕉37歳の句。

天明3年(1783年)、黒沢尻の玄皐連と一関の俳人扣角(こうかく)建立。

玄皐輦砂は 諏訪神社 にも芭蕉の句碑を建立している。

扣角は小松屋惣右衛門。

扣角の句

時雨きや篠にこほるゝ蔓さゝけ


白髭神社社殿


神社由来

 平安のそのむかし、天喜4年(西暦1065年)前九年の役で源頼義が衣川の柵より北上し鳥海・黒沢尻そして厨川柵での安倍氏との戦いで、共に従軍していた源内という家臣が重傷を負い、静養の地として立ち寄ったのが小高い丘崎山だった。この丘は眼下に和賀川の清流、東に北上の大河を望み、朝夕霞たなびく絶景の地であった。

 源内は郷人の助けを借りて傷の治療に専念していたある日、今までにない美しい夕日に見とれながら、突き出た岩の上を見てはっとした。一人の白鬚の翁が釣糸を垂れ楽しんでいた。次の日も、また次の日も。源内は問うた「いずこより参られしや」。翁応えて曰く「吾は近江の國の白鬚大明神なり。この崎山からの眺望は吾が近江の國志賀の郷の風景に相似たる処なれば、吾悉くこの地を好むものなり。吾を信ずる者に福徳を与えん」と告げ、沈みかゝる夕日にかすむ彼方へ消えて行った。

 源内は郷人と計り、延久年間(1069〜1073)に社殿を造営し、白鬚大明神を崎山に奉祭した。

 爾来幾星霜を経て再び戦国の世となり、和賀氏の出城として鬼柳氏が守っていたが、天正元年(1573年)南部氏の家臣九戸政実によって攻め落とされた。

 和賀氏滅亡後、諸城破却により開放され、郷民の鎮守の社として寛永年中再建されたが、江戸時代享保元年(1716年)焼失、享保18年宮司外郷人3名の同行にて近江の國は志賀の郷に鎮座まします白鬚神社に参上し、大明神の御分霊を勧請、現白鬚神社を建立した。

明治の神仏分離で「白髭神社」と表記される。

嘉永5年(1852年)3月14日、吉田松陰は黒沢尻から鬼柳へ。

十四日 晴。驛を發す。舟にて和川を渡り、鬼柳村に至る、關あり。南部の封地は此れに疆す。盛岡より鬼柳に至るまで、左右に山あり、而して山間は稍寛廣なり。蓋し南部封内の沃地は此れを最もと爲す。


「和川」は和賀川であろう。

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