このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
水戸街道
稲吉宿本陣
かすみがうら市下稲吉の旧水戸街道沿いに稲吉宿本陣がある。
稲吉宿本陣
本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、
取手
、中貫、稲吉だけである。
本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
千代田町指定文化財(史跡)
千代田町教育委員会
稲吉宿本陣の隣に木村家住宅(旅籠皆川屋)があった。
下稲吉は、稲吉宿と称して江戸時代水戸街道の宿場として栄えたところである。
当時本陣や17軒もの旅籠が軒を連ねて、大名一行をはじめ旅人遊客で大分賑わいを呈していたといわれる。
旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行8間2階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。2階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。
旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠である。
茨城県指定文化財
かすみがうら市教育委員会
文化14年(1817年)5月22日、一茶は
竜ヶ崎
から女化原を通り土浦へ。
[廿]二 晴 竜ヶ崎ヨリ女化原ヲ通土浦ニ出 稲市村近江屋弥五エ門泊
『七番日記』(文化14年5月)
「稲市」は「稲吉」の誤りではないか。
明治22年(1889年)4月3日、
正岡子規
は
常磐会寄宿舎
から友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて水戸へ徒歩旅行をした。3日は藤代に泊まり、4日、稻吉を経て
石岡
へ。
こゝを下りてまたいもを求め北に向て去りぬ。筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む。石岡は醤油の名處也。萬屋は石岡中の第一等の旅店也。さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり。足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。
『水戸紀行』
平成17年(2005年)3月28日、千代田町は霞ヶ浦町と合併して、かすみがうら市となった。
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