このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
水戸街道
石岡の一里塚
石岡市泉町の県道52号石岡常北線沿いに「石岡の一里塚」があった。
西側の塚
東側の塚
県指定史跡
石岡の一里塚
所 在 地
石岡市泉町2108・12805番地
指定年月日
昭和33年3月12日
一里塚は、主要街道の1里(約4km)ごとに設けられた一種の路程標である。
慶長9年(1604年)、江戸幕府が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道の両側に築いた塚を指したのが始まりといわれる。この塚に植えられた榎の木陰が、行路者の休息の場となったことも少なくなかった。
その後、時代の経過にともない荒廃し、改修の熱意がない地方では、原形を失うものが多く、天明年間には、その大半が失われたといわれる。明治以後まで残ったものでも、その後、道路の拡張などによって失われたものが多く、今日では、両側に残っているものは少なく、特に榎が残っているものは全国的にもめずらしい。
石岡の一里塚は、旧水戸街道の府中(石岡)から長岡に通ずる街道の両側に残るもので、特に東側の塚の上に植えられた榎が、今も樹勢よく天に向かって伸びている。
この一里塚は築造当時をしのばせ、江戸時代の交通政策を知る上で重要な史跡である。
昭和60年1月
石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
明治22年(1889年)4月3日、
正岡子規
は
常磐会寄宿舎
から友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて水戸へ徒歩旅行をした。3日は
藤代
に泊まり、4日、石岡に泊まった。
こゝを下りてまたいもを求め北に向て去りぬ。筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む。石岡は醤油の名處也。萬屋は石岡中の第一等の旅店也。さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり。足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。
『水戸紀行』
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