このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道


東海道鳴海宿高札場

東海道鳴海宿に高札場が復元されていた。


東海道鳴海宿高札場(復元)


 東海道鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点北東角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。

この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ2間2尺、長さ3間、幅1間との記述が残されています(1間:約180cm、1尺:約30cm)。また、同時の高札8枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。

鳴海も絞りで有名であった。

これよりすこしみちをはやめ行ほどにはやくもなるみのしゆくにつきければ

   旅人のいそげば汗に鳴海がたこゝもしぼりの名物なれば


旧東海道に「鳴海宿本陣跡」の標柱があった。

鳴海宿本陣跡

 鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。

 宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。

 鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。

 なお、天保14年(1843年)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、2軒あった。

 名古屋市教育委員会

寺島ボク言は、鳴海本陣の主人であった。

下郷家本家(千代倉屋)


三代目吉親は鳴海六歌仙の一人 下里知足

 貞亨2年(1685年)4月4日、芭蕉は下里知足亭に泊まっている。

 貞亨4年(1687年)11月5日、鳴海の寺島ボク言亭で歌仙。

 貞亨4年(1687年)11月20日、鳴海の出羽守氏雲宅で歌仙。

 貞亨5年(1688年)7月8日、知足の弟下里三郎右衛門の新築祝いで歌仙。

 貞亨5年(1688年)7月10日、鳴海の児玉重辰宅で歌仙。

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