このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2008年
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伝 源義経首洗井戸
〜蒔田本陣跡〜
藤沢に「伝 源義経首洗井戸」があった。
「伝 源義経首洗井戸」
伝 源義経首洗井戸
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた
義経
は奥州(東北)でなくなり、文治5年(1189年)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。
ここから北方40メートル辺りに義経首塚と伝える遺跡もありました。
源義経史跡
藤沢市
5月22日 辛巳
申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔の館に於いて與州を誅す。その頸送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せらる。御消息に曰く、
去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。
『吾妻鏡』
(文治5年)
藤沢の国道467号は旧
東海道
。
藤沢は日本橋から6番目の宿場。
享和元年(1801年)2月28日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で戸塚宿に到る。
左のかたの岨に一本の桜さきそめたり。げにあづまぢのかざしなるべし。千本杉といへるわたりは老杉雲をしのぎて高し。藤沢の宿にいたり、橋をわたり道場坂を上りて、小栗堂にいる。照手姫尼の像あり。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月17日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で藤沢に泊まる。
十七日夜明てたつ。酒匂川をわたり、梅澤をすぎ、大塚平塚をこゆるに、風出たり。馬入川をわたり、南湖をへて、藤澤の宿、藤兵衛がもとにやどる。
『小春紀行』
蒔田本陣跡
本陣は大名・幕臣・公家などの公認宿舎のことで、藤沢宿では大久保町と坂戸町の境付近に蒔田源右衛門が勤める本陣がありました。
藤沢
宿とりて東をとふや暮の月
其角
『雑談集』
古い建物があった。
紙屋さんのようだ。
藤沢宿には俳人方斛がいた。
方斛は旅籠屋「豊国」の主人。川上九左衛門。豊国屋永十郎とも云った。
葛三
、
雉啄
に師事。初号豊穀。
文化3年(1806年)7月5日、菜窓菜英は方斛を訪ねている。
方斛を訪ひしに業といゝ、心と言、一時流行の人と見ゆ。これか宅にてかのしたかへる男か帰るを待會とせしより、心に任せぬ俳談しはらくす。いよいよ梅男も来れハ、立出るに親子ともせちに畄めけるも聞かす
遊行寺
にまうて、
『山かつら』
弘化2年(1845年)2月24日、61歳で没。
方斛の句
梅白し夜明の空になりすます
『くさかね集』
嘉永4年(1851年)4月7日、吉田松陰は藤沢宿に泊まっている。
一、七日 翳。卯後、小田原を發す。肩輿にて酒匂川を渡り、大磯・平塚を經てて、舟にて馬入川を渡る。道常に海と相隨ふ。未後、藤澤に抵る。未だ抵らざること里餘にして雨に遇ふ。
『東遊日記』
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