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私の旅日記
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2007年
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ペリー公園
〜北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑〜
久里浜港
からペリー通りを行き、ペリー公園へ。
ペリー公園
巨大な記念碑があった。
北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
伊藤博文筆
1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を世界へと引き戻す原動力となった。
ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。
記念碑の裏面
北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
昭和十年二月二日
神奈川縣廳内伯理記念碑保存會
じょうきせんの碑
泰平のねむりをさますじようきせんたつた四はいで夜も眠られず
江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺した。
開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝
(まなべあきかつ)
)号松堂作ともいわれている。
ペリー記念館
入場は無料。
記念館の前に戸田伊豆守とペリーの像があった。
ペリーの像は
下田
にもある。
弘化4年(1847年)2月9日、戸田伊豆守は浦賀奉行に着任、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、幕府代表として久里浜でペリーと会談した。
ペリー公園の片隅にも記念碑があった。
縣下名勝史蹟四十五佳選當選記念
ペリー上陸の地
横須賀易新報社
いろんな碑があるものだ。
文明18年(1486年)、道興准后は「浦川の港」に到る。
浦川の港と云へる所にいたる。 こゝは昔し頼朝卿の鎌倉にすませ給ふ時。金沢・榎戸・浦河とて。三つの湊なりけるとかや。
えの木戸はさしはりてみず浦がはに門をならべて見ゆる家々
『廻国雑記』
「浦川の港」が浦賀港であるかどうか、歴史家の間で疑問があるようだ。
文化3年(1806年)6月1日、小林一茶は
金谷
から浦賀に渡る。
一日 晴 浦賀ニ渡
涼風もけふ一日の御不二哉
『文化句帖』(文化3年6月)
6月1日は
浅間神社
の祭日。
翌2日、
専福寺
に墓参。
ペリー来航の47年前のこと。
文化6年(1809年)3月15日、一茶は百首から浦賀に渡る。
十五[日] 百首ヨリ浦賀ニ入
『文化五・六年句日記』
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