このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

福田寺〜武市半平太先生像〜
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田野町の国道55号沿いに福田寺がある。

山門は国道の裏手にある。


山門の手前に水連が咲いていた。


本堂の右手に芭蕉塚があった。


松風の軒をめぐりて秋くれぬ

 出典は『泊船集』(風国編)。「大坂 清水茶店  四郎右衛門にて」と前書きがある。

 元禄7年(1694年)9月26日、茶屋四郎左衛門の求めに応じて作ったといわれている。

 天保10年(1839年)双松庵社中建立、裏に果仙ほか24名の社中の名がある。

 果仙は宮地太仲といい医師として高名で、句もよくし庭の松の木から、社中を双松庵と名付けた。

 また農学にも造詣が深く「農家須知」を著す。天保13年74歳で没した。

本堂


浄土宗 西山派の寺である。

本堂の前に武市半平太先生像があった。


台座に武市半平太の辞世の漢詩が刻まれていた。


花依清香愛   花は清香に依って愛せられ
人以仁義栄   人は仁義を以て栄ゆ
幽囚何可恥   幽囚何ぞ恥ずべき
只有赤心明   只赤心の明かなる有り

武市半平太先生像の右に二十三士顕彰碑がある。

二十三士顕彰碑

 二十三士が処刑されて、3年後、明治維新の大業が成った。

 明治10年、遺族に族禄が復活され、明治24年、特旨をもって贈位の沙汰があった。

 明治30年かつての同士で、当時の高知県知事であった石田英吉の発議により、この碑が建てられた。

 題字は、伯爵東久世通禧による。

野根山二十三士とは

 元治元年(1864年)7月25日、土佐勤皇党の盟主・武市半平太の釈放と「尊王攘夷」をスローガンとする藩政改革を求めて、23人の若者が立ち上がりました。野根山二十三士です。

 彼らは、清岡道之助を首領に、清岡治之助、近藤次郎太郎、豊永斧馬、柏原禎吉、宮田節斎、新井竹次郎など、現在の野田町・安芸市・北川村・安田町・室戸市など安芸郡下の郷士・庄屋層の人々でした。平均年齢は二十五歳、最年長は川島総二の41歳、最年少は檜垣繁太郎、木下慎之介の16歳です。

二十三士墓所


二十三士墓所について

 二十三士の遺体は、道之助の遺言で、清岡家の菩提寺である福田寺境内に埋葬されました。現在の墓は、道之助の妻・静が明治24年(1891年)に修築し、大正2年(1913年)に現在の墓碑が建てられました。墓碑銘は、道之助の弟清岡半四郎が付き従っていた公家である東久世通禧が揮毫しました。

 墓碑銘が戒名でないことと、墓石の先端が尖った石柱である理由は、明治元年(1868年)、幕末に活躍した志士たちを神道形式で祀るようにいう明治政府の命令によります。

 ちなみに、墓地の前の石碑には、静が夫の霊を慰めるために詠んだ和歌が刻まれています。

静の歌碑


よしやこの土にかばねは埋むとも千歳の松に名をぞとどめん

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