このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

五高記念館〜ラフカディオ・ハーン〜
indexにもどる

熊本市中央区黒髪の熊本大学に「五高記念館」があるというので、行ってみた。

五高記念館の入口にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)レリーフがあった。


平成16年(2004年)9月25日、建立。

 ハーンは明治24年(1891年)11月から約3年間旧制五高教師を務めた。この間長男一雄が誕生し、日本に関する最初の著書『知られぬ日本の面影』が出版された。ここ五高を舞台にした作品には『九州の学生とともに』『柔術』『石仏』などがある。

 ハーン没後百年祭を記念して制作されたこのレリーフは多くの方々からのご好意によって実現したものであり、ここに末永くハーンを顕彰するものである。

 石碑の英文は『極東の将来』と題して明治27年1月に行ったハーン講演の結語の一部で、「日本の将来は無益な贅沢、華美を捨て、質実、簡素、善良を愛する九州魂、熊本魂の維持如何にかかっている」と刻まれている。

ハーン・レリーフ設立実行委員会

石碑の英文


THE FUTURE GREATNESS OF JAPAN

WIKK DEPEND ON THE PRESERVATION OF

THAT KYUSHU OR KUMAMOTO SPRIT - THE

LOVE OF WHAT IS PLAIN AND GOOD AND

SIMPLE AND THE HATRED OF USELESS

LUXURY AND EXTRAVAGANCE IN LIFE

昭和39年(1964年)1月、五高創立75周年記念事業として建立。

ラフカヂオ・ヘルン小泉八雲先生ハ明治二十四年カラ明治二十七年マデ本校教師トシテ在任。碑文ハ極東ノ将来ト題スル名講演ノ結語デアル

五高記念館(旧制第五高等中学校本館)


国指定重要文化財

 明治政府は国家の柱石となる人材の養成を目的に、明治19年勅令(中学校令)により全国を5学校区に分け、それぞれに高等中学校を設立することにした。第一区の東京、第二区の仙台、第三区の京都、第四区の金沢の設置は早く決定したが、第五区(九州)の場所選定は難航した。熊本に決定した事情について『五高五十年史』は、当時の文部大臣森有礼が「所謂社会上流に立つべき人物を養成するには、大藩にして而も良風漲る熊本の地が、地理的にも、歴史的にも、その条件を具備している」と考えたからだと述べている。

 第五高等中学校の成立は明治20年(1887年)5月だが、九州の最高学府にふさわしい赤煉瓦2階建の本館は明治21年(1888年)2月に着工して翌年8月に完成した。当時の洋風建築を代表する建物の一つで、建築費は20,504円22銭2厘であった。ちなみに、土地購入費と建物費の総額10万円のうち、8万円は熊本県が支出し、残りの2万円は旧藩主細川護久の寄付1万円をはじめとする地元有志の寄付であった。

 明治23年10月10日、開校記念式が盛大に行われ、爾来この日が五高開校記念日となっている。明治27年9月の高等学校令により、第五高等中学校は第五高等学校と改称され、昭和25年(1950年)3月の閉校まで『五高』の名で親しまれてきた。

 嘉納治五郎、秋月胤永(かずひさ)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、 夏目漱石 などによって育まれた『剛毅朴訥』の龍南精神は、その後の龍南健児(五高生)の精神的支柱となった。そして、五高の教授や生徒たちの活動は、地方の教育や文化の発展に大きな影響を及ぼした。また、13,582名の卒業生の中には、内閣総理大臣を勤めた池田勇人、佐藤栄作をはじめ、日本の政界・官界・財界・学界などで活躍した人物が多い。

 第五高等学校は、戦後の学制改革によって60年余年の歴史を閉じたが、その伝統と遺産は 熊本大学 に引き継がれている。

現在は、立入禁止。

夏目漱石の像 へ。

「私の旅日記」 のトップページへ



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください