このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
大江天主堂
〜吉井勇の歌碑〜
﨑津天主堂
から国道369号で大江天主堂へ。
大江天主堂
天草のキリシタンは、徳川幕府の禁教時代にも「かくれキリシタン」として、ひそかに根強い信仰を続けましたが、明治に入り禁制の高札が撤去され、再び布教が行われました。
フランス人ガルニエ神父は、明治25年32歳でこの地を訪れ、昭和16年82歳でなくなるまでの宣教師として亡くなるまでの49年間布教に努め、天草言葉を巧みに使いこなし、村人からは「パアテルさん」と呼ばれ慕われていました。
現在の天主堂は、神父が信徒と協力して、昭和8年に完成させたものです。明治40年、北原白秋等の5名のいわゆる「五足の靴」の旅は、「パアテルさん」に会うのが主な目的とあり、ガルニエ神父に会っています。
熊本県(観)
吉井勇の歌碑があった。
白秋とともに泊りし天草の
大江の宿は伴天連の宿
天草曽遊之詩録一首 勇老痴
昭和27年(1952年)2月、建立。
明治40年8月新詩社の与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の青年詩人たちがこの教会堂にガルニエ神父を訪ずれた。この5人の文学者の天草訪問は、のちに白秋の邪宗門となり一行の文学活動もこの旅を転機に躍進し華麗にして哀切な作品となって結晶し文学史上光彩をはなっている。
この歌碑はその新詩社同人の天草訪問を記念するために建設したものである。
昭和27年5月27日
隣に新しい吉井勇の歌碑があった。
ともにゆきし友あらず我一人老いてまた踏む天草の島
碑文
吉井勇先生が明治40年「五足の靴」の九州旅行から45年たった昭和27年(西暦1952)5月28日孝子夫人と共に来島され第一歌碑の前に立たれた時の即詠でこの2基の歌碑の短歌を併せ読むと改めて「五足の靴」の旅がしみじみと回想される
平成13年6月17日 塩谷勝 記
大江天主堂
昨日の疲労で今朝は飽くまで寝て、夫れから此地の天主教会を訪ねに出掛けた。所謂「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此村にゐるさうで天草言葉が却々巧い。茂助善か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇ろに勧められた。
「五足の靴」
敬慕 ルドビコFガルニエ神父像
ルドビィコガルニエ神父略歴
1860年12月20日フランス国オートロアール県ルビュイ市に生まれる。1884年パリ大神学校卒業、司祭となる。1885年12月20日、日本赴任のため神戸上陸。1892年大江、崎津教会を兼任。1929年大江教会専任司祭として1942年1月13日御逝去まで勤務さる。その間1934年大江天主堂を建立。日本に上陸されてより57年、大江教会50年、81歳御逝去、この天主堂に永眠さる。
昭和40年(1965年)11月16日、
水原秋桜子
は九州の旅に出る。
大江天主堂 三句
聖鐘の鳴りやみて雁わたりけり
青柚子や帳もあをき懺悔室
甘藷
(いも)
切りて干すまづしさを主は見給ふ
『殉教』
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